我、趣味について思ふ

なんかいくつかのページでわしがいつぞやに書いた日記の内容が取り上げられてますが、ちとわしももう少し一般的に考えてみることにしました。
 というのも、某氏のページから飛べるさらに某氏のページにて「死は普遍的」なんて書いてあったのを見て、うーむと思ったわけですよ。いや、そんなことは言われずとも分かってるつもりですし、別にその内容を批判する気なんぞさらさらありません。生物の定義をなんとする、と問われれば「繰り返しである」と答えるわしですから。すなわち、「生まれ、遺し、消える」。これこそ全ての生物に共通するキーワードではないでしょうか。だから「死は普遍的」で言わんとしてることは一応理解してるつもり。ただ、この「普遍」の意味を取り違えたとき、すなわち「殺しは普遍的」とされたら怖いな、と思っただけでして(これはその日記を書いた某氏に対してじゃなくて、一般的に、という意味です)。
 だからあの日記のタイトルが「殺されるヒロイン」な訳なんですね。「死んでいくヒロイン」ではないと。「いや、ストーリー的には猟奇的内容じゃないし、別に誰かに殺される訳じゃない。鳴沢はやってもないゲームの内容を知らずに批判してるんじゃないかっ!」と思ったあなた、まだ私の言わんとしたことが分かってない。
 ハッピーエンドなんですよ?あれ。なんでハッピーエンドで人が死ぬんですか?しかもアクション物でそれが敵だとか、その犠牲を払うことで新しいことが始まるわけでも何でも無し。要はシナリオライターがプレーヤーの心を動かそうとして、なかばシナリオライターのわがままでヒロインや主人公が殺されるんです。しかもその犠牲で残るのはプレイ中の想い出と、目の前に残された空虚な悲しみ。問題提起も何もないままに全てが終わってしまう。そんなストーリーがまかり通るのはどうか?と思うわけですよ。こんなの当たり前のように感ずるようになったら自殺者増えますよ、きっと。
 …ま、「生と死」はある意味生物の究極のテーマだったりするわけで、そんな大それた物についてわしごとき小者があれこれ語るのは恐れ多いんですが、とにかく最近「そういうゲーム多すぎ(–;」と言いたいだけです。おかげで、ゲームやる前に「これ、ヒロイン死んだりしないよね?」といちいち訊かねばならないのがアレです、って感じですね。
#実際のところ、シナリオライターだけを責めるわけにも行かず、「それを期待するプレーヤ」にもわしは問題があるような気がします。「慈しむべきヒロインが殺される」ことで心が痛むことを「快感」と思ってる人、くれぐれも現実でそれをやるのだけは止めてください。他人はもちろんのこと、自分に対しても。

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