ヒッキーな一日

起きたのが正午前だったということもあり、今日は完全に安息日ということで、「何もしない」を決め込みました。つー訳で、食料も買いに行かず、ひたすら家でごろごろーっと(w。

んで、ごろごろしてたらなんだか10年前のことを思い出しちゃいましたよ。


「世の中に“絶対”、なんてものはないんだ」

桜が咲き乱れ、また、当時の友人たちの殆どが新しい門出を迎える92年の4月、私は独りつぶやいた。3日前、かつて絶対の永遠を信じて疑わなかった相手と、まさかの破局。春の陽気に華やぐ街の中で、独りただ沈んでいた。

もっとも、その原因は私だった。それまで、過度とも言って良いほど片時も離れなかった2人。しかし、有る機会を境に急速に距離を置くようになった。今となってはその「機会」が目的だったのか…?と、かつての自分に自問したくなるほどに。…いや、安心していたのもあるのだろう。絶対、永遠であると。しかし、その私の傲慢さが彼女を孤独に追いこんでしまった。

正直、もう何がどうなっても良いと思った。たとえば、今立つ駅のホームから身を投じたらどんなに楽だろう…と。が、結局身を投じなかったのは、わずかに残る未来の希望への未練だろうか…。いや、そんな格好良い言葉は嘘だ。ただ単純に、そんなこと出来るほどの度胸も無かったのだ。立ち上がることも出来ず、終わらすことも出来ない。そんな自分がことごとくイヤになった。

そんな折、先日約2年ぶりに再会した中学時代の友人と駅で会う。彼も私同様、今年は1年間浪人と聴いていたので、駅で会うのはなんら不思議なことではなかったが、それでも、独りでいるよりは遙かにマシだった。少なくとも、「終わらすこと」が出来ない自分への言い訳が出来るから。

最初は普通を装ってるつもりだった。が、彼は何かを気づいたのだろうか、突然、「予備校おわったら遊びに行くよ」という話になった。それからというもの、彼は予備校が終わると毎日、私の家を訪れてくれた。

そしてある日のこと、彼はパソコンゲームを持ってきてくれた。「うちじゃ(パソコンがないので)出来ないから」と言って、毎日パソコンゲームをしつつ、いろんな話をした。音楽を聴いたり、昔話にふけったりしていた。

今思えば、これがパソコンにはまる最初のきっかけだった。

私は彼が気を遣ってくれているのだと思い、ある日、彼の帰り際に「ありがとう」と言った。しかし、彼は私の想像外の返事をした。

「それはイヤだ。友人だから遊びに来ている。それだけのことでなんら当然のことだ。お礼を言われる筋合いはない。」

今まで流したのとは違う種類の涙が落ちそうになった。そうか…独りじゃないんだな、私は…と、至極当たり前のことなのに、それに気づかなかった自分に気づいた。そして、ようやく立ち上がる決意をした。「生きてやる。がむしゃらにでも、格好悪くても。」

その彼は「そろそろ受験勉強もまじめにやらないとね」と、秋の中頃を境に、私の家に訪れる回数を徐々に減らしていった。そして、次の春、彼と私はそれぞれ違う場所ではあるが、新しい門出を迎えることが出来た。

正月休み、年賀状を書いたこともあって、彼が約1年ぶりに家に遊びに来た。その際、彼はさらりと、しかし確実に言った。

「うん、もう十分元気みたいだ。安心したよ。」

そして、それ以来、彼は私の前に姿を見せることはなかった。


当時の彼が示してくれたパソコンへの道が、その後、まさか自分の職業になるとは思ってませんでした。そして、未だ恋に関してのみ、自分を信じることに臆病になっています(どうしても、今の気持ちが、いつか冷めて嘘になるのじゃないのか、と思ってしまう)が、今の俺があるのは、彼のおかげであると言っても、概ね間違いじゃないと信じて疑いません。

でも、お礼を言うとまた叱られるだろうから、お礼は言いません。ただ、「またいつか、会えればいいね」と言うだけに留めておきますかね。うん。

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