March 11,2011(Fri)
その日の朝はとても憂鬱だった。
以前PMOとして進めていたプロジェクトは昨年一区切りがついたところで後任にバトンタッチをし、立場上はアドバイザーになって身を引いた形になったが、その後当初の懸念通り益々混沌としてしまい、もはやアドバイザーとしてだけでの参画では済まされない事態になりつつあった。先日のミーティングでも、メンバーのあまりの危機感の無さに思わず机を叩くほどの激高を禁じ得ないほどだった。「こんなことならPMOとして推進している方が幾分楽だった」そんなことをふいに考えながら、いつも通り自宅のドアを開けた。外に出てみると厳しかった冬の寒さも幾分和らぎ、鳩が鳴いていた。その様を見て「世の中では私が幼い頃から寸分違わぬ朝を迎えているというのに、私だけが何くよくよしているんだ。もう少し気楽に考えよう。」とほんの少しだけ気を取り直し、プロジェクトの拠点となっている某物流センターに向かった。
某物流センターは一昨年の11月に竣工した最新の倉庫であり、アメニティ、セキュリティ、そして防災設備に至るまで都心のオフィスビルと見紛うほどの設備を有しており、これ自体も先述のプロジェクトの成果でもある。送迎バスがそのセンターの車路を徐行している際、ふと目についた物があった。それは免震構造であるが故の土台と建屋の隙間と、その部分の雨樋配管の接合部であった。そういえば水曜日にもそれなりに揺れの大きい地震があったが、実際に大地震が来たらどんな風にここが動くのだろう、などとぼんやり考えていた。まさか、それがその日のうちにそれが起こるとは想像だにしなかったが。
14時46分頃、私は大会議室でスケジュールの打ち合わせをしていた。現状把握を行うにあたり直近のことが全く決まっていなかったため多少本題から脱線したが、それが終わっていよいよ本題に入ろうとしたとき、縦揺れが起きた。最初は一昨日に来た地震と同じ様であって、「震源は比較的遠いが、割と大きい地震かも。ただ、この辺は大丈夫だろう。」と思っていた。しかし、一昨日よりも明らかに揺れる時間が長く、一旦収まるかと思ったら増々強さを増してくる。メンバーの一人が「これは大きい…!」と言うのが聞こえる。揺れは免震装置のせいもあるのだろう、悪路を走る乗り物のような揺れが止めどなく続く。「これは大変だ」そう思ってメンバー全員が会議室を出て窓のある部屋から外を見る。センター横の湾岸道路では全ての車が停止し、駐車場のトラックが激しく揺さぶられている。入り江では明らかに通常の波とは異なる波紋が広がっている。まだ揺れは収まらない。「地震情報、テレビを見よう!」と別のメンバーが言い、大会議室に戻ってそこのテレビを付ける。そこには最大震度が7であることや自宅近辺が6強(または弱)であったこと、そしてこれまで見たことの無い「大津波警報」が表示されていた。揺れは一旦収まり、再び窓のある部屋に行く。センターからは都内を一望出来るが、明らかに火災の煙と思われるもやが次第に上がって行く。そして長くて強い余震が襲って来た。こうした状況を見て私は「ついに関東にも大地震が来た」と確信した。揺れの最中に既に頭をよぎったのは「家族や家財」であったが、大地震直後は電話はまともに使えないことを理解していたので、携帯や会社の電話でコンタクトを試行しつつテレビから情報を得ることにした。
テレビは最初都内や津波が襲う前の東北の港町を映していて、それ自体を見る限りでは家屋の倒壊はそれほど大きくなかったようにも見える。しかし、地震直後の仙台の映像を見て岩手出身のメンバーの一人は「東北は大きな地震が多いので比較的慣れているが…しかし、ビルの窓がこんなに開いているのはおかしい。これは恐らく割れている。これほどの地震はあまり経験がない。」と言うのを聴き、不安になった。そういわれてみると、同じ映像に映っている立体駐車場屋上の車の位置が明らかにおかしい。ラインをはみ出しているのはもちろんのこと、明らかに他の車にぶつかったと思われる物が多数ある。仙台でこれほどであるとすると、流石に自宅近辺も無事では済みそうでは無いことは何となく想像出来た。早く家族に連絡を取りたいが、電話はつながらない。焦燥感だけが募って行く。そしてそうしているうちにテレビは現実とは思えないような光景を映し始めた。先ほどまで何も無かった東北の港町が、津波…波、というより私には海自体の水かさが増して溢れ出したようにすら見えたが…に飲み込まれて行く。ついさっきまで車が走っていた道路の横の岸壁が、おびただしい海水によって海と岸壁の境界すら分からない状態になっていく。本来跨道橋のはずの高架も、海を渡る橋のようになっていく。そんな中、前後ともに波に阻まれ逃げ場所を失った車が右往左往する姿や、波に飲まれまいと必死に走って逃げる人の姿などが見えた。先ほどの東北出身のメンバーが「津波で流されていたあの車、ライトが付いていたということは…」続きは聞くまでもなかった。私もあまりの惨状を目の当たりにして、思わず「とても現実とは思えない、悪夢を見ているかのようだ。」と口走ってしまう。
何度かの試行のあと、やっと家内に電話がつながった。「長男を迎えるため幼稚園に行っており、外に居たため全員無事」、「幼稚園園庭が臨時の避難所のようになっており、皆そこにいる」、「周りを見渡す限りは家屋の倒壊などは特に無いようだが、他のお母さんからはテレビが落ちて壊れたという話も聴いている」という話を聞くことが出来た。私からは「先ずはそこで皆と共に行動すること」と「自宅では色々な物が倒れたり壊れている可能性があるので気をつけること。可能であれば改めて連絡して欲しい」と伝えた。
その後、自分の席がある本社やサーバ室のある拠点等、並びに実家が無事であることを確認した後、改めてテレビを見ていたが、状況は増々凄惨さを増していく。市原市の精油所の火災がテレビに映し出されたあと、窓の外を見ると確かに炎と黒煙がその方向から上がっているのが見える。余りの状況が一気に押し寄せて来たためか目眩と吐き気が襲ってきたが、ぐっと堪えながら取りあえずセンターの自分の席に座った。そして、自分が帰宅困難者となってしまったことを思いながら、どうするかを考えていたら自宅に到着した家内から電話が入った。「家に帰ったが、リビングではスピーカが倒れたり食器棚から食器が落下して粉砕され床に散乱、洗面所は入り口のタンスが動いてしまって入れない、二階の寝室も本棚が入り口を塞いでいて入室出来ない。その他の部屋も軒並みめちゃくちゃ。」と地震発生直後より明らかに動揺している様子であった。そしてその様を見て長男がずっと泣き続けているとのことであった。幸い、テレビは「落下しそうだが持ちこたえている」、ライフラインも「水が普段より流量が少ないものの出てはいる、電気等も問題ない、ガスも使える。」とのことだったので、比較的無事だった和室で寝られるようにすることと、夕食をコンビニなどで調達すること、移動の際には自動車を使用しないこと、それから余震などもあるので片付けは後回しにして、出来るだけ安全な場所に留まること等を告げた。
正直、こういう状況になって懸念すべきはパニックになってしまうことであり、そういう意味では家内はたまたま外出していて知人と一緒だったため救われたとも言える。自宅に居てこの地震に襲われていたら、仮に怪我がなかったとしても平常心では居られなかっただろうと思う。しかし、自宅に戻り家内が幾らか動揺していることや、長男がパニックになっていることを考えると、いくら帰宅困難と言えど帰らざるを得ないと考えた。念のため、上司に「最悪の場合タクシーを使用して帰宅」することを承諾してもらったが、タクシーはどうせ捕まらないことは分かっている。実際、タクシー会社に電話を掛けてもつながらなかった。徒歩で帰るにしても単純計算で10時間以上かかり、現実的ではない(そもそも、道路が安全である保証も無い)。
どうするか悩んでいたところ、自動車通勤者が各方面ごとに帰宅困難者を自宅まで送ることになり、私は物流会社社長の車で送ってもらえることになった。普段であれば2時間程度の道のりであるが、およそ6時間ほど掛けて23時50分頃自宅に到着した。結果論ではあるが、これは物流センターへ出勤していたことが幸いした。もし、いつも通り本社に出社していたらこの日の帰宅は諦めざるを得なかっただろう。自宅に到着して大きな声で「ただいま」と言い、家族たちの無事な姿を見て安堵し、自宅の被害状況を確認した。幸いにも、スピーカはそれぞれ倒れこそしたもののその下にあったものが緩衝材として作用したため無事、それ以外も派手に壊れたものはほとんどなく、被害は軽微であった。一方、テレビはCATVがダメになっているのか地デジが見れず、インターネットも不可であったため、BSを見て情報を得ることに。そして、とりあえず余震も続いていることから片付けは後回しとし、浴槽に水を張って寝ることにした。とはいえ、気が張ってしまっていることや、度重なる余震とそれによる緊急地震速報のエリアメール、そして夜中にも拘らず飛び続けるヘリコプターの音などで碌に眠れなかったが…。
次の日の朝、水が出なくなっていた。いつのまにか復旧したインターネットでつくば市のwebサイトを見ると、どうやら暫く断水となり、復旧の見込みも無いらしい。部屋をそれぞれ片付けたあと、私たち家族は実家に避難すべく、車にて小平市に向かうことになった。(続く)