30年前の今日、その2

せっかく30年前をフラッシュバックしたので、その新しい家に着いたあとの話も「老いて忘れてしまう前に(笑)」少し綴ってみます。

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新しい家に着くと、恐らく引っ越しをお手伝いいただいた方々が昼食を取られた直後だったのでしょうか、沢山の大人の方が少しずつ帰られて行く姿が見られました。家の中には沢山の家具と段ボールが山と積まれていて、テレビも見られないなあ、何をして過ごせばいいんだ…とまたも途方に暮れましたが、そんな中で、これまで奥にしまわれていて見ることが出来なかった1980年8月号のコロコロコミックがあったので、それを読んで夕方までを過ごしていました。

夕方にはその頃通っていた剣道の稽古があるので、引越前の家に置いてきてしまった自転車の搬送を兼ねて、その自転車置き場の前まで親の運転する車で向かいました。つい今朝まで住んでいたはずなのに、その前の家とは急に距離が離れた気がして、不思議な気持ちになったのを覚えています。

剣道の稽古は、その日卒業式を迎えた上級生の壮行稽古ということもあって、稽古後に写真撮影をしたりしました。この上級生の中には、先述の気になる女性が含まれていた訳ですが、このときの方が卒業式のときより「ああ、もうこうやって稽古することも無いんだな」と寂しい気持ちになっていました。そしてその帰り途、その女性とその兄弟との家の方向が同じになったことで、自転車で一緒に帰ることになったのですが、今で言うところの「つくば公園通り」の竹園公園のあたりで、その弟さんが猛スピードを出して先に行ってしまい、急に照れくさくなってしまった私もそれを追いかける態でその女性とはそこで分かれてしまいました。この「恋」というのには小さすぎる想いも、そのときが一区切りになったのです。自転車のスピードを上げ過ぎたため、春というには冷たい風のせいなのか涙目になりながら、でしたが。

さて、新居に自転車で戻ると窓の明かりが見えない…。また置いてきぼりを食らったかと一瞬焦りましたが、リビングには断熱戸があり、それが閉じていたためと知り安堵しました。そして、その日は家族と共に筑波大学付近の中華料理店「珍来」で夕食をとり、比較的荷物の少ない主寝室で4人川の字になって寝ました。

次の日は私自身の終業式であり、そして転校の日でもありました。そして、そのときの担任の先生も結婚するとのことで職場を退くと言う話もその日に聴き、昨夜のこともあって精神的に相当来ていたのか、下校直前には友達に別れの言葉を笑顔で言うつもりが、何故か涙がこぼれ落ちていました。まだ当時は「寂寥感」という言葉を知るはずもない私でしたが、これをきっかけに色々と将来について悲観的な考えを多少なりとも持つようになった気もします。

その日の午後にはケーブルテレビの線が繋がってテレビが見られるようになりましたが、電話線だけは「最寄りの電柱まで回線が来ていない」という事実が現場工事の方により発覚し、使えるようになるまで1週間ほど掛かりました、

転校先の小学校も剣道で縁のあった人が何人か居たりして環境としては良好でしたが、始まったばかりの科学万博などもあり、あまりにも新しい環境や状況が波のように押し寄せてきて、恐らく相当精神的に不安定だったのかと思います。毎日、学校帰りには上履きも含む全ての荷物を持ち帰り次の日にはその全てを持参する、という日が冬頃まで続きました。ランドセルを背負うのにも何故か抵抗感があって、いつもショルダーバッグで通学していました。また、剣道教室でもリーダに任命されたりもして、こちらもそれなりに気負いましたが、ただ剣道教室については転居後も以前同様のところに通っていたこともあって、むしろそこが自分の居場所として確固たるものがある分居心地がよく感じられたのでしょう、それまで「大嫌い」だった剣道教室が何故か比較的楽しい場所に変わっていきました…。

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その剣道も、一昨年せっかく再開したにも掛からず先日辞めてしまいました。理由は色々ありますが、元々再開したきっかけが職場がリストラ等で混乱し日々疲労困憊で自分の居場所をそこに求めていた…というところで、その後、段々仕事も波に乗ってきてその必要が無くなったというか、いやむしろ、足枷とすらなりつつあったというのが正直なところです。かつて恩師たちの顔に泥を塗る形になったのは本当に心苦しく、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、まあ、これも一つの結果と割り切って前に進むことにします。自省を兼ねてここに記しておきます。

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