匿名との決別

というわけで、先の更新から1ヶ月間、色々あったのですが…(苦笑)。

前回のエントリーで書いた幼馴染の一件以来、どうもあまり良い運が巡ってこない感じなのですが、別にそれはその出来事のせいでもなんでもなくて、単に私自身が慢心し過ぎていて、それ故油断と隙だらけだったのかな、と思います。幼馴染の一件だって、結局は私が彼女のことを丁寧に扱わなかったが故だった訳ですし。

今般の事故で顔の左側の頰から額にかけて傷が出来、「人前に出るのすら憚れるほど酷い有様になった」と思い込み、一時は精神的にどん底まで堕ちてしまったりしましたが、逆にどん底まで堕ちてしまえば、あとは這い上がることだけ考えればいい。同じどん底に繰り返し堕ちないために、何が拙くてどう改善すればいいかを考える良い機会になりました。

そして得た結論は、結局大事にしていなかったのは何よりも今日の、今この瞬間の自分自身だったのだな、と気付きました。ここ数年、旧友や知人が若くして彼岸へ旅立つさまを立て続けに見、ついつい色々気持ちが焦るようになってしまっていて、あらゆることに結論ばかり急ぐようになり過程を楽しむことをすっかり忘れてしまっていました。

そして大切にしなかった、という意味では自らの本名もあります。
私は本名があまり好きではありませんでした。ちょうど、小学校に入学した頃にマッチこと「近藤真彦」氏が大ブレイクしていて、それ以来「一文字違いでこんなに違うのか」ということを直接言われたり、それっぽい態度を取られたりするなど不愉快な思いを長年していて、トラウマになっていたというのも少なからずあります。それと良くも悪くも確実に覚えられるので、そういう意味でも好きではありませんでした。

だから、ネット上では一部のSNSを除いては積極的に本名を出すのを控えていました。そんな中で「鳴沢大気」という私を識別し得るもう一つの名前は、知らない人から見れば実名と捉えられるという点で、いい隠れ蓑になっていました。しかし、その隠れ蓑こそが、自らを律することを疎かにさせ、ますます自らを貶めていることにこれまで気づかずにいました。

一方、昨今は「好きではなかった本名」のおかげで色々良かったこともあったな、ということにも気づきました。先日の幼馴染の再会だってそうですし、それ以外にも幾人かの旧友に会った際、私が私たる何よりの証としての本名を沢山の方に覚えてもらえていることが、デメリットではなくメリットであったことに今更ながらに気づいたのです。

そういったことを鑑み、これからは出来るだけ今の自分自身も大切にしたい、それが結果的に皆を幸せにできるのだろう、との想いから、「鳴沢大気」の名はこれを機に名乗るを止めます。本名を出すのはそれなりにリスクもありますが、メリットが上回るとすれば、あえてそのリスクを甘受する勇気も必要と考えています。

なお、ニックネームである「Marc’n」は、私のことをかつて「まーくん(或いは、まあくん)」、「まあちゃん」と呼んでくださった方がいたことから、どちらとも取れるスペルにしただけで、それ以上の意味はありませんが、そういう風に呼ばれることがとても気に入っていたこともあって、今後はそれなり使っていこうかと考えています。

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