昨日のエントリーにも書いた通り、四半世紀ぶりに訪れた鎌倉でおよそ三年ぶりに学生時代の友人に会いました。
久々にお会いしたその友人は大変元気そうであり、思い出話も含め様々なことを話せたことは本当に楽しく、また嬉しかったです。まさに時を忘れるほどの充実した時を過ごすことができました。
しかし、そのことをきっかけに改めて思い知らされてしまったことがあります。それは表題の通り、過ぎた歳月の長さと重さ。かつて同地に訪れた日のことを殆ど思い出せないことで、そのことに気付かされたのです。
私はこれまで自らの日々をずっと懸命に走り続けてきたこともあって、未だそこまで歳を取った自覚がない(それはそれであまり良くないことかも知れませんが)のですが、改めて街を行く本当の若者と比べて、私たちがもう既にその世代からは遥か離れた遠い場所にいる存在であることを知らしめられました。それは鏡に写る自らの姿と昔の写真とを比べること以上に「強い実感」として、自らの意識を襲ったのでした。
この半年のダイエットで幾ら若い頃と同じような体型にまで身体を絞ったとしても、もうその姿はアラフィフのそれであって、若者のものではありません。また、職場で私の歳の半分にも満たない若手に対してその教育係としてどれだけ親身に対応し、結果的にその若手とは私的なことを含めた幾つかの情報交換が出来る関係になったとしても、私は彼ら彼女らの世代が独特に持つ世界・環境・価値観に直接立ち入ることを許されることはないのです。
頭ではそんなこと、最初から分かってました。けれども、それを頭で理解するのと、実感として思い知るのでは大きく違うものです。少なからず衝撃を受けました。
『歳を取ること・人生を充実させようと頑張ってきたことが、今となってはこんなに寂しい気持ちになるとはね…。』
私が子供だった頃や若かった頃は、早く立派な大人に或いは諸先輩の如く社会人として成熟できるようにと「上」ばかり見ていましたが、今となってはそうすることで何かを何処かに忘れてきてしまった気がしています。もっとゆっくりその階段を登るべきだったのかな、とすら思ってしまっています。でも、もうやり直すことはできないのですね。
私は今のところ、若い頃に出来ていたことで今出来ないことは幸いそう多くありません。むしろ、若い頃は不可能だったことの幾つかも出来るようになっています。だけど、本当にこの人生の道のりが自分にとって最良または最善のそれだったのかどうか。今更どうすることも出来ませんし、正解などがあるはずもないのですが、今宵は何故かそのことについて考えさせられています。