朝、親戚の別邸で目を覚ますと身体のあちらこちらが疼く…。どうも久々の外泊で、慣れない布団や枕を使ったことであちらこちらに違和感が残る状態になったようです。昨日、たくさん歩いたことや、明け方とても寒かったせいもあったのかも知れませんが、いずれにしても疲労が蓄積されていることには違いがなく、あまり無理するとあらぬ事態を招きかねないことから、軽く朝食を摂ったのち、現地を発ちました。
そのような状況でしたので寄り道はしないつもりで出たものの、ただ来た道を戻るのもつまらないと思い、久々に国道119号線で宇都宮まで下り、その後、桜通りから栃木街道で壬生まで出て、そこから国道352号線経由で上三川→二宮、という、宇都宮住みだった頃比較的よく使っていたルート経由で帰ることにしました。
まず国道119号線ですが、水無バイパス開通などにより杉並木の中を走っていた場所は殆ど通行止めになっていることを知りました。ずいぶん昔に杉並木の保護のためにバイパスを作って…みたいな話を聴いていたような気がしますが、実現してしまうと結構寂しいものですね。まだ、例幣使街道の方は一部を除いて杉並木の中を通行できますが、こちらも時間の問題なのかなあ、などと思いました。
その後、宇都宮市街を久々に走りましたが、なんというか、当時住んでいた頃のことをぼんやりと思い出しました。住み始めたばかりの頃は近所にまともなスーパーがなく普段は粗末な食事だったことや、将来家族になる旧家のお嬢さんが毎週アパートに遊びにきてくれる様になってからのこととか…当時は経済的にとても厳しくてささやかな生活でしたが、なんとなく、今よりは未来への可能性であったり、幸せさみたいなものを感じていたのかな、とかそんなことをぼんやり考えたりしたのでした。

そもそも、「幸せ」なるものって何をもって得られるものなのでしょうね?
かつては経済的、あるいは物資的に裕福であればきっと幸せになれると思っていました。
世の中上を見ればキリがないとはいえ、それらについて今の私は当時に比べればかつての希望や想像を遥かに上回るほどの状況になっていると(例え自惚れと言われたとしても)感じていますが、しかし、実際には将来への不安に苛まれている状況が続いています。この不安さに翻弄されていることが昨今のさまざまな失敗の原因になっていることは、もう疑いようがないところです。日々のたくさんの出来事について考えることを止められるのであれば、それは払拭できるのかも知れませんが、もうかつてのように「堕ち」たくない、そんな気持ちがずっと自分を支配し続け、答えなんてあるはずのないことに考えを巡らせることを止めることが出来ずにいます。本当はもっと日々を楽しみたいはずなのに…。
その後、二宮までの道中は率直に「長い」と感じました。最近使っているルートのありがたみはこの辺にあるんだなあ、と実感することに。この懐かしいルートは(かつて使っていた例幣使街道経由ルート同様に)少なくとも自宅から日光へ向かう場合には使う必要はなさそう。こうして日々は少しずつ変わっていっている。それも「きっといい方」へと。それを幸せと感じられるように…などということを考えさせられる道中でした。