思い出話と現況の狭間

高校時代にお世話になった方々と

かつて高校時代に放送部でお世話になったShinya氏と私と同期のRさんが当方の家に遊びに来てくれました。この三名が集まるのは実に15年以上ぶりになるわけですが、その間、お二方は学問の世界に身を置かれ続けられています。そして、その状況を聴いていて思ったのは「当方が好き勝手な日々を過ごしている間、お二方とも勉学に勤しまれ、気付くと学の世界では歴然たる差が付いていたんだなあ」ということでした。
…と、なんだか学歴コンプみたいなことを書いていますが、実はそれだけではなく…。
昨晩、私の両親が諸用にて我が家に一泊した際、久々に両親といろいろと話す機会があり、Shinya氏を含めた色々な方の現状を聴いたのですが、その中で、母に「お前も自分のためになると思うのなら、大学院で学んだ方が良い」と言われました。それ自体はいつも「生きることは常に学び続けることだ」旨を私に言い続けている母のことです、特に珍しいわけではないのですが、それに対して私が「しかし、それが今の仕事や生活の何に役立つのか分からない」と答えると、父から「院を出ることは間違いなく何らかの価値がある。仮に修士であっても、論理的思考は今のお前よりしっかりした物を持つことが出来る。」と言われてドキッとしました。私は今の職場において「どちらかと言えば論理的」という評価を受けている部分があると(勝手に)思っているのですが、一方で、面倒になると「まあ、そこまで考えなくてよいか」と論理的思考を一部放棄・逸脱して結論に導いてしまう強引な部分が少なからずあることを自覚しています。それだけに、私にとって父のこの発言はとても重いものになりました。
学歴という名の「ステータス」的なものを除いて、今の私にとって院に行き、何らかの学位を得ることによるメリットがあるとすれば、「今の職場という極めて限られた狭い範囲を超えて、より社会に貢献しうる人材となるために、更なる広い視野と探究心、そして論理的裏付けの能力を得る」ことになるのかな、と更なる学位を得ることについて分からないながらもそう理解しているのですが、この能力を得、それを活かすには恐らく今まで歩んで来て、そしてこれから歩もうとしている道から大きく飛躍をして、新しい道を見つけなければならないなあ、と思っています。そして、言い訳じみていますが、それには今背負っている物があまりにも重過ぎて…。
私は学生時代、学校での勉強がとても嫌いでした。それは辛くて苦しいことから逃げたい、という意図があったのはもちろんですが、それ以外に「それが何の役に立つのか理解出来ない」こともその理由の一つでした。その頃、母には常に「将来、後悔する」と言われ続け、そして実際に後悔することになったのですが、今回の件も「今の自分の何の役に立つのか理解出来ない→だから院への検討は極めて消極的」と言う部分についてはその頃ととても良く似ています。これらのことに今敢えて目をつぶって今後歩むと想定される道をただ歩み、結果後悔することになるのか、それとも、今はその意味が分からなくとも飛躍を夢見て勝負に走ってみるべきか、結果としてどちらが良いのかは、今、真剣に検討すべきことなのかもしれないなと考えさせられました。

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