今日、50回目の誕生日を迎えました。ついに50歳代ということで、年齢的にはもう誰がどう見ても「おじさん」or「おじいさん」の域に達したわけですが、全く実感がありません。
なお、23年前の今日、自分が歳を取ってしまったことをここで嘆いていたようですが、今となっては「何をいうかこの若造!」という感じでしょうか(笑)。
さて、振り返れば40歳代は精神的な逡巡を繰り返す、あまり成長のないものになってしまったなあ、と反省しています。
およそ8年前の転職をきっかけに、若い頃欲しいと思っていたものをほぼその手中に納め、その慢心と共に自らのライフワークとそれらのゴールがなくなってしまって、ふと気を抜くと「これから、何を目指して生きていけばいいのだろう」と考えさせられ、しまいには得たものたちと引き換えにそれ相応の歳月を費やしてしまったことを嘆き、人生とは?とか無駄に生き永らえてしまうことで、単に周囲に迷惑をかけているだけの生産性のない人物になっていやしないか、とかそんなことを考えながらずっと悩み、迷い、彷徨いを繰り返していた感があります。もっとも、それについては今この瞬間もはっきりとした答えを出せずにいますが…。
ただ、これまで当たり前で比較的どうでも良いと思っていた様々なものを、欲しいと思っていたものを手に入れる過程でほぼ失ってしまっていたことと、それらの幾つかがまだ取り返せることに気づいたのがおよそ2年前、それらを取り返す最中で得られたものは少なくないですし、おそらくそれらを大切にすることでまだ新たな挑戦はできるのではないか、という自信もついてきました。
その流れを継続させるべく、この先10年の目標は「常に新しいことへ積極的にチャレンジしていく」とします。いや、これまでもずっとそこは忘れていないできたつもりではありましたが、新しいことを進める中でも自分の今持つリソースを温存しながらの戦いになる、という点でこれまで以上の奮起が求められるのかな、と思っています。
なお、目標として「挑戦と温存」的な内容とすべきではということも少し考えましたが、温存をも並立して前面に出してしまうと、どっちつかずにすらならずに比較的やりやすい「守勢」が主となってしまい、多分自分の性格からするとこれまでの10年と同様の彷徨い続けるだけになってしまうので、あくまでも「新しいことへのチャレンジ」の過程で「温存」も両立する、即ち攻が先で守が後。なかなかにバランスを取るのが難しいですが、それを実践することで周囲に対する更なる生産性向上への寄与と自己研鑽、そしてそれらによる充実した日々を過ごせるものと考えています。
そして、新しいチャレンジによって得られる利益は「みんな」のために、そして「自分」のために。
もし利益の向き先を「みんな」ではなく「誰か」としてしまうと必ず別の誰かが不利益を被ることになりますので、常にマクロ的視点を忘れず、またそれが自らにも資するものであること、その原則を大切にしたいと考えています。
これらをどこまでやれるか。いや、どこまでやるか。それを常に意識して充実した50歳代を送りたいと思います。

— Post Script —
夜、ケーキの代わりにプリンアラモードを家族で頂きました。
プリンアラモードはケーキより好きかも。