Category Archives: 思い出話

昨日のエントリーで

MacBook Proを購入の上、MBAとiMacを処分して一台に集約したとの内容にて、「私にとっての最初のMacはPowerBook G4でしたので、ある意味ようやく元の形に戻ったことに」と書きましたが、そもそもなぜデスクトップ機を追加したのだろうということが思い出せずに悶々としていたのですが、ブログの当時のエントリーにこんなことが書いてあることに気づき、その経緯をようやく思い出しました。

PowerMac G4(QuickSilver2002)を貰った

まあ、今更の感がありまくりな機種ですが、それでも三次キャッシュ他などにより、わしが常用しているPBG4(FW800)より高速なので、先日購入したディスプレイなどに接続し、きちんと使用できるように設置しました。

で、使ってみて思ったことは「MacOS Xって、高解像度のモニターがあって初めて、その良さが分かる」ということでした。PBG4では、Safariなどにて妙に大きなフォントを使用するように設定されているなあ、などと思っていたのですが、UXGAでは丁度よく、非常に見やすいです。また、今回貰ってきたPMG4はメモリを1GB以上搭載していることもあり、非常に快適。正直言うとMacOS XってWindowsに比べてもっさりしてると思っていたのですが、これならば悪くないという印象です。(以下略)

2007年1月3日のブログエントリーより抜粋

要は、PowerBook G4は文字が表示画面の比率として大きく、また、処理能力もあまり満足できなかったものだったのに対して、デスクトップ機ではその印象が払拭されるほど好印象だったがために、ラップトップでの運用からデスクトップへと転向した、ということだったみたいです。

で、今日に於いては画面解像度的にも処理能力的にもラップトップでもなんら支障がないから、集約を実行できた…、と。まあ、結局のところ「なあんだ」ってことでしかないのですが、当時は結構我慢してMacを使っていたんだなあ、ということを今更ながら改めて思い出した次第。

当時はまだiPhoneが国内では販売されておらず、Macはデザイナーなどの一部のニッチ向けや、道具というよりインテリアまたはおしゃれアイテム的な意味合いが強かった頃で、しかし私自身はMacOS XのベースがDarwinというUNIXであることゆえの可能性を感じて(半ば意固地になりながら)使っていたのでした。その後、iPhoneが国内で販売され、そのメーカであるAppleやMacがそれまで以上に知れ渡りニッチ・マニア向けのものからコモディティ化が進むことで、性能や使いやすさがそれまで以上に飛躍的に改善されていったように思います。

私的にはそのコモディティ化が進む中で「Apple製品に蹂躙されることは、将来的に困ったことになるのではないか?」と不安を感じ、2012年冬には一度Windows環境に回帰しようと考え、実際にマシンも数台買いましたが、もうそれを受け付けない身体になってしまい(笑)、今日に至ります。もっとも、Surface Laptop Studioは結構気に入ってますので、しばらくはMacBook Pro併用かなあ、と思っていますが。

古巣で打ちのめされる

先週金曜日、振替休日を使っておよそ20年前に勤めていた会社を訪問してきました。

この会社に勤めていた頃の私は、某大手SIerの現場(Y○P)での自動車電話向け交換機ソフトウェア開発の業務環境が過酷過ぎ故に殆ど逃げ出したも同然で辞めた直後であったため、自分は社会やIT分野では生きていけないのではないか?とかそういうことを考えるほどに自信を喪失していた時期でして、入社直後は少々気まずい雰囲気になりかけたこともありましたが、結果的には自身の能力を飛躍的に向上させてもらうことができました。それは、単にITや各種業務、そしてそれらへの改善・改革に関する知見を広げただけでなく、何より「仕事が面白い」と思えるようになったことでスタンスが変わり、あらゆる分野について積極的な興味を持つきっかけを作ってくれました。今の私がそれなりに活躍できている(と烏滸がましくもそう思っている(笑))のは、この会社での経験が全ての発端であるとしても全く過言ではないですし、実際普段からそれっぽいことを周囲に語り続けています。

そんな素晴らしい職場でしたが、結局は退職に至った理由を改めて整理すると次の4点になります。

  • 元々地元志向で、できればつくばに戻りたいと常々考えていたところ、私自身の入籍後一年のタイミングで両親が都内に移住し、実家が空くことが決まったこと。つくばからであれば都内勤務も可能なので新たなチャレンジができると考えた。
  • 新しいIT技術の入手性、という点において地方は若干不利と感じていたこと。飽きっぽい性格もあって、常に新しいテクノロジーを知ることに飢えていたが、セミナーの殆どは都内での開催。宇都宮から東京は遠い…。
  • 取引先の社長などから「優秀」とお世辞にも褒め上げられたことをきっかけに、もっと色々できることがあるのではないか、と自信を持ち始めていたこと。
  • 待遇面で不満があったこと。会社の業績が芳しくない状況だっただけにやむを得ないとは感じていたものの、家族ができてからは経済面で覚束なくなった。元来、趣味人間であることを標榜していた私にとっては厳しいものがあった。

その会社を辞めてからの私は、

  1. 意気揚々と東証一部上場企業に入社するなりいきなり経営危機に陥り企業合併の憂目に。「統合に向け、課題は明確にすること」との指示を都合よく拡大解釈してデューデリジェンスの最中に相手企業(そちらも東証一部上場)を技術的に貶めうる文書を作って発表したことで両社経営陣が混乱。合併直後に転籍先の子会社での上司面談では開口一番「辞めたかったら辞めてもいい」と言われ、冷遇される
  2. しかし負けん気フル発揮で自らの持つ技術力を駆使して暴れ回っていたら、「汎用的なITの知識量が多い」、「打たれ強い」との理由により、何故か2桁億円規模のプロジェクトのマネージャとして抜擢?(微左遷説あり)され兄弟会社に出向
  3. 紆余曲折あるもプロジェクトは完遂。その最中に本社へ転籍辞令。現場から一転して企画・調達・管理担当となり、かつて在籍していた子会社は取引相手に。自身は海外企業買収への対応や、震災をきっかけとしたBCP対応、デジタル事業戦略への支援など多数のプロジェクトに参画する傍ら、グループ会社でのITにおける予実管理などを担う
  4. 本社の在籍部門ではほぼ一人で立ち回り充実感・疲労感共に著しい最中、かつての職場の先輩からお声掛けをいただき「日本の科学技術分野に微力ながら貢献できる」、「新天地でもっとゆっくり仕事に取り組みたい」との理由で三度目の転職
  5. しかし転職後もせっかちな性格は変わらず。結局「ゆっくり」とはなんのことやら、ほぼ全ての社内ITの更改に携わり、入社後4年半で2つ昇進し責任者に。元々一匹狼的なところがあるがゆえ、ラインマネージメントに苦戦中(自分でやった方が早いが、それはダメと若手に諌められる日々)

みたいな感じで、まあとにかく落ち着かない日々を過ごしてきたわけですが、この持ち前の性格が幸いしたのかはたまた災いしたのか、経験だけは妙に豊富になってしまい、それゆえかつての古巣を訪問することで、その現状から今の自分ならそこで何ができるか?的なことを探って自らの能力トレーニングをしてみたいと時々考えていたのでした。

と、前振りが異様に長くなりましたが、以降、実際の先日の訪問について書いていきます。

お話ししたのは取締役となられた二名の方と関係者の皆さん。そのうち一名の役員は転職後も何度か飲み会に誘っていただいたご縁があり今回の訪問のきっかけを作ってくだった方で、これまでの事業上の新たな取り組みについてのお話しを伺いました。その方は技術畑一筋ということもあってか常に新しいことにアンテナを張られているようでして、既に還暦を遥か前に迎えておられるご年齢にも関わらず、昨今のAIなどに強い興味・関心をお持ちのようでした。

もう一名の役員とは多分退職後にお会いするのは今回が初めてでしたが、在職当時も私とほぼ同世代にも関わらずとにかく仕事や改善に前向きな方で会社の中心的な存在だっただけでなく、一度会社のwebサイトの更新内容で意見が衝突した際に、その方はあくまでも会社やそのステークホルダーに対してどう考えるのか?という視点で意見を述べられ、そこには私利私欲なる一点の澱みをも感じさせられなかったことにまさにハンマーで殴られたかのような衝撃を受けたことで、前述のように仕事へのスタンスを変えるきっかけの一つを私に与え、また常に畏怖を抱く相手でした。もっとも生まれてこのかた実際にハンマーで殴られたことはないですけどね(笑)。

その方と関係者の方とで昔のことやその後のことなどをお話をしていて感じたのは、一つのことにじっくり腰を据えてやり切ることの大切さ、そしてそれで得られるものの大きさ、でした。昨今は社会全体が業務改革に邁進することが美徳のように言われ続け、やれBPRだとかイノベーションだとかDXだとか…、まるでそれまで積み上げられてきたやり方の大半を否定するような「ちゃぶ台返し的な変革」とその流れに乗ることが恰も王道のように語られていますし、実際私もその流れに乗ることがベストではないにしてもモアベターであると信じていましたが、必ずしもその道に乗らずとも堅実かつ地に足を付けて時間を掛けて一つのことにじっくり取り組み熟成することで得られるものは必ずあり、そしてそれはちゃぶ台返し的な手法では決して得られない財産になりうると実感し、二十余年の時を経てまたもハンマーで(略)でした。そして、これが出来ている企業が国内にどのくらいあるのかな、と考えさせられることになりました。実際、このレベルでの緻密な管理が行えている企業は私の職歴ではよほどの大企業でもない限り他に見当たらないですし、「ああ、こういう環境だったから、私が今の私たりうるのかあ」と今更ながらに気付かされることに。当時は他の会社、特にバックオフィスの業務については殆ど何も知らなかったので仕方ないとはいえ、もっと学べることはここに沢山あったんだな、と思い知らされました。

もう一つの気づきとしては、職場の雰囲気がとても良かったことです。業務に集中しながらものびのびとされている印象で、特にサーバ室などの要所要所の整理整頓具合はお手本レベル。自らを省みる必要性を強く実感しました。

さて、今回の訪問の目的であった「今の自分ならそこで何ができるか?的なことを探ってみたい」への解はというと、熟成が進んでいるゆえに開発環境が昨今のIT人材の希望とはほど遠く、それゆえ後継者探しが困難で事業継続性に懸念がありそうなことと、それへの解決法としてITをマイグレーションする必要性が生じた際に現在の業務プロセスの「核となる部分」を適切に維持できるよう、熟成が進んだ業務プロセスを客観的に分析して俯瞰的・全社横断的な標準化・ドキュメント化をするための支援、かなあと。自分でもあまりにも月並み過ぎて面白くもなんともないし、収益への寄与という点でも即効性のない内容ゆえ推進はかなり難しいなあ、と感じたのも事実。少なくとも片手間ではできそうにありません。

もっとも余所のことはさておき、自分の足許がとても落ち着きがなく・おぼつかないものであることがこの訪問をきっかけに改めて詳らかになったことで、それへの取り組みをなんとかしないと、という気持ちにさせられました。今日、なかなかそれが難しい環境であることも事実ではありますが、困難なことほど完遂した時の達成感も大きいことを知っているわけですから、その旨みを味わえるようまた明日から頑張っていきたいと思います。

20回目の

暫くはこの「20」という数字が入ったタイトルが続くかも知れませんが、適当にスルーしていただきたく。

先日のエントリーでも触れましたが、今日は家内の誕生日です。一緒に祝うのはこれで20回目ですね。
ケーキはつい先日食べたばかりで、連続で…となると、あまり有り難みが感じられなくなり勿体無いので、本社からの帰路にユーハイムのバームクーヘンを買って夕食後にみんなで食べました。家内は今日、何も買ってもらえそうにないと思っていたらしくて、私がこれを持ち帰ったら本当に喜んでくれました。うん、よかったよかった。

ささやかですが、家族の誕生日を祝いました
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色々あった日

今日は未明にロシア製ミサイルがポーランドに着弾して被害者が出てしまったニュースが入って「すわ世界大戦か?!」みたいな話があったり、ある界隈で「ミサイル」などと悪口を言われている自動車の新型の発表があったり、アルテミス計画のSLSロケットの打ち上げが成功したりで、色々あった一日でした。

なお、今日は出勤率の都合で在宅勤務をしたのですが、家の中が寒かったです。まあ、11月中旬だから寒いのもやむなしだろうなあ、とは思いますが…。それにしてもついこの間まで「暑いねえ」などと言っていた気がするのですが、本当に季節の移り変わりが早いな、と感じます。

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ありもしない世界線

先週金曜日の夜に会社の他部門の方と夕食をご一緒させていただいたのですが、その際、今年中途入社した20歳代後半の同性の後輩から、私の仕事のスタンス(電話でのやり取りを聴いていて、判断の早さや話の説得力とか、その辺り)と容姿についてなぜかポジティブな評価をもらってしまいました。そして言われたことは…。

「Marc’nさんが既婚で当社に入ってくれていてよかった。そうじゃなかったら片っ端から(異性を)口説かれてた。」
「今でもそのお姿なのですから、若い頃は相手を選びたい放題だったのじゃないですか?」

おいおい、そんな世界線は元からないって(笑)。お世辞にしたって言い過ぎ(笑)。

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人生最大の分岐点

20年前の今日、こんなことがありました。

学生時代からの友人であり、今は同じ職場に働くLEE氏と奥さん、それからその奥さんの親戚の女性と遊びに行きましたです。

2002年10月27日のブログ記事より

ここでいう「(友人の)奥さんの親戚の女性」なる人物が、今の家内です。つまり、家内と初めて出会ってから20年もの歳月が経ちました。
なお初対面の印象として、当時の私は次のようなことをコメントとして(つまり、通常は見えないような形で)書き残していました。

女性についてですが、一言で言うなら、やはり「お嬢様」ですね。初対面と言うことも有ってか、多少緊張している向きはありましたが、言葉の端々に落ち着きがあるし、仕草にも風格があります。服装については、それほど派手過ぎず、地味すぎず、って感じでして、「なんか余裕が…」とか思いましたですよ。ご自身の仕事についても「大したことはない」と謙遜されている辺り、「ああ、むしろ…」と思いました。

2002年10月27日のブログ記事のコメントアウトされていた部分より

あとで当人に訊いてみると、実際は全く余裕はなかったようで、相当に緊張していて大人しくしているくらいしかできなかったというのが本音だったらしいですが、まあ、いずれにしても年齢の割には妙に大人びていたことが好印象だった記憶があります。

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懐かしのTVアニメ

今週木曜日からTVアニメ「うる星やつら」の放映が始まりましたね。私は木曜夜にオンエアされたものをタイムシフトして観ましたが、当初予想していたよりは違和感もなく、それなりに新しい要素もうまく溶け込んでいて割と良くできているなあ、というのがファーストインプレッションです。

うる星やつらの初代アニメーションの放映は私が小学生の頃でした。全体的に内容が大人びていて、しかもヒロインが半裸…ということもあって両親の前での視聴はとても憚られた(子供の頃は純粋だったのです(笑))ので、当時は自宅で観ることはあまりなかったのですが、私が小学校四年生頃から通い始めた剣道教室にて、道場があった筑波学園警察署(当時)の一階ロビーのテレビで稽古後の家族の迎えを待つ間にこれを『署員を含む周囲の大人の目を憚らず、自らチャンネルを操作して』観ていた一つ年上の女子が居て、「うわっ、なんてマセているんだ」などと若干引きながらも、当時その女子のことが気になっていたこともあって、ちゃっかり一緒に観ていた記憶があります。

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優しくなりたい

朝からa-haの「You Have What It Takes」を聴きました。実はa-haが今も活動していたことを知らなかったのですが、久々に聴いたMorten Harketさんの声は若かった頃にさらに増して優しい雰囲気で、一日の始まりにはちょうど合っているかも、と思いました。

こういう、優しい雰囲気を醸せるミドルになりたいな。今はまだ自身に余裕がないからなのか、若い頃と同じかそれ以上に尖鋭的だったり攻撃的なままですが、何がきっかけにそうなれるのかな?また、どうすればそうなれるのかな?などということをぼんやり考えさせられた朝でした。

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たまには音楽の話を

そもそもここしばらくブログの更新をサボっていたのもあるのですが、Twitterを含め、最近全然音響機器や音楽鑑賞の話をしていない気がするので、たまにはそう言った話を。

ちょうど去年の今頃だったと思いますが、MacBook Air M1を購入し、同機上でiPadのアプリである「Esoteric Sound Stream」が動作するようになったのに伴い解約してしまったRoonを、先日ちょうどVersion 2.0がリリースされたことから改めてトライアル利用したところ、音質面で以前より好みの方向になったことや、Roon Radio機能の良さを改めて感じたこと、それから結局未だリリースされないSpotify Hi-Fiに痺れを切らしたことから、今般改めてサブスクライブすることにしました。昨今、円安ゆえにドル建て決済は地味に痛いですが、先月スマホの契約をドコモの5Gギガライトからahamoに切り替えたりしたので、なんとかその分の差額で費用は賄えるかな…とか、そんなふうに考えて自分を納得させようなどと考えていたりします。なお、今回のバージョンで追加されたRoon ARC機能は確かに便利そうではあるのですが、私自身はスマホに自分が所有しているほぼ全てのアルバムを同期して持ち歩いているので、現時点ではそれほど利用頻度は高くならなそう。

で、今朝聴いているアルバムはこれ。シェア機能はSpotifyの方が優れているので、リンクは敢えてそれで。

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何か新しいことを

と思ったわけでもないのですが、ネガティブな内容のエントリーがトップに表示され続けるのはあまり気分が良くないので新たに何か書いてみることにします。

本サイトはこれまでずっとQNAPmyQNAPcloudのDDNSを利用しており、ホスト名は「keitwo.myqnapcloud.com」となっていました。が、どうも格好が良くないし、NASとはいえ、せっかく自宅にサーバを立ち上げているのですから、独自ドメイン名での公開サーバの運用を「いずれやりたい」と思っていました。
しかし、ドメイン名を維持するのには費用も掛かるし、さらにDDNSもだいぶ前にDynDNSが有償化されて久しいし、かといって固定IPアドレスを取得するほどは…と、アフェリエイトなどでお金を稼ぐつもりのない、ただの落書きブログサイトを運営するためには色々と荷が重く、結局本サイトを立ち上げてから9年もの間、ずっと手付かずになっていました。

実を言えば独自ドメイン取得についての意識はかなり古くからあり、恐らく2001年ごろだったと思うのですが(もはや記憶すら曖昧)、当時サービスを開始してから間もなかった「お名前.com」を群雄ネット(当時)の倭人さんに紹介され、そこで当時利用していたハンドル名「K2」から「keitwo.netはまだ登録されていないから、取得してみては」とお薦めされたことから、目的もなく一度ドメインを取得しました。が、その後「どうやって使えば良いかが分からない」こともあって何ら利用することもなく、それの更新時期の頃には個人的な環境・情勢が変わっていたこともあって、そのまま放棄してしまいました。

なお、このハンドル名「K2」についてですが、その由来をここで語りたいと思います。
元々は高校生時代に部活動の先輩から私の苗字のイニシャルである「K」と呼ばれていたことがあり、それを気に入って自ら文章を書くときなどの署名として「(Written )by K.」を積極的に使っていましたが、その後、大学受験に失敗したことと大切な縁を失ってしまったことがよりによってほぼ同時に起こったことで精神的に大変な窮地に立たされ(これが前エントリーで書いた「30年前」の件だったりもします)、そこから立ち直る際に「これまでのK.から一つバージョンアップしたという意味を込めてK2と名乗ろう」としたことと、当時発売されていたJBLのハイエンドスピーカー「Project K2 S9500」がとても格好が良く音も良いとのことで強い憧れを抱いており、そしてそのK2の由来がエベレストの次に高い山の名前、ということを知った時、「私は決して組織のトップになりうる人物には今後もなり得ないと思うが、しかし、トップは二番手以降の存在があるからこそトップなのだ。私はそのトップの役に立てるような二番手になりたい。」との思いを抱くようになり、群雄ネットへ参加する際(1994年)、この「K2」というハンドル名を名乗ることにしたのでした。
その後、群雄ネットのオフ会などの自己紹介で名乗る際、「K2」という日本人の名前としては不自然な、もっと言えば「いかにもオタクっぽい(笑)」名前が恥ずかしいと感じるようになり、その後、ともすれば本名っぽく実際に勘違いされたことも多々あった「鳴沢 大気」なる名を経て、その後「Marc’n」と改めて今日に至るわけですが、そうは言ってもこのK2というハンドル名はその後のものとは前述の通り思い入れが全く違うことから、今に至っても密かにその名を捨てずにいて、特にホスト名においては引き続き積極的に使用し続けていたのでした。

K2という署名を使い始めた当時の文章の末尾部分

そして、前回のエントリーに書いたようなことがあって色々と「本来の自分らしさを取り戻すために」を自らの胸中にて繰り返す最中にかつて取得した独自ドメイン名のことを思い出し、先日改めて「keitwo.net」ドメインの状況を「お名前.com」で調べてみたところ、なんと今日においても使われていないことを知り(これは本当に意外でした)、さらには一年取得であれば無料であることなどから、20年以上経って再び同ドメインを取得しました。そして、せっかく取得したのだから利用しないのは勿体無い、と思い、活用法についてさらに調べてみたところ、無償のDDNSとしてMyDNSがあることや、QNAPで設定を行えば運用も非常に容易(myQNAPcloudでの運用と負荷的にはなんら変わらない)であることが分かり、昨日の仕事の合間にちょこちょとこ設定を行なうことで、本ブログを新ドメイン名でのホスト「www.keitwo.net」へ移行することができました。
なお、今般これが比較的容易に実現できたことは、21年前とは異なりこういったことを実現するための技術的な情報がネット上に豊富にあることや、各種サービスが充実していることがその理由としてありますが、自らのスキルというか、ITに対する知識も当時とは桁違いになっていることも大きかったように思います。もっとも実現までに21年も掛けるようなものではない気はしますが…(笑)。