Category Archives: 思い出話

昔日の蛍とその先にあったもの

先週、およそ8年ぶりにインフルエンザに罹ってしまい、それ以来どうも体調が芳しくない感じだったのですが、今日は幾分マシになったので一週間ぶりにサイクリングに出掛けました。

サイクリングは昨年5月に自転車を購入以来始めたもので、出発時には特に行き先を決めず「あ、そういえばこっち行ったことなかったな」と走りながらに決めていることが多かったりするのですが、今日もそんな感じで走り、気づいたら高校時代にお世話になったT先輩のご実家の付近を走っていました。そして、その時なぜか今から28年前の夏のある日の出来事を思い出したのでした。当時わし自身が書いた「放送部にて」から当時の出来事を引用します。

8月5日(土)、この日も部活はあったのだが、私は山梨に出かけてしまったので、部活を休んだ。だから何も書けないが、M先輩から後で聞いた話によると、T先輩の家で花火大会(と言っても、たかがしれてるが。)をやったそうな。(以下略)

この一文には特に書いていないのですが、この花火大会の後にT先輩ご実家付近の田んぼでみんなで蛍を見に行き「とても綺麗だった」という話をのちに聞かされ、「羨ましいな」と思ったことを思い出しました。しかし今日、その田んぼだったと思われる場所は宅地造成され、小綺麗な戸建住宅が建っていました。「いずれ時が経てば見に行く機会もあるだろう」と思っていた蛍とその景色には、結局一生見ることができなかった風景になってしまったのか、と残念に思う気持ちと、かつて思った「羨ましいな」が今日改めてフラッシュバックして複雑な心境になりました。

もっとも、もう見ることができないのは風景だけではありません。もはや当時の仲間たちが全員集まって何かをすることは恐らくないし、もしかすると生きている間に二度と会えない人もいるのかな、と。人との絆も昔日の蛍の灯のように強く、そして儚いものなのかもね、などと柄にもないようなことを考えつつ、その場を後にしました。


夕方、家族とともに地元のショッピングモールに行ったら、もう何年もお会いしていなかったT先輩とご家族に偶然お会いしました。この不思議なタイミングでの再会は、あの日見ることが叶わなかった蛍たちが「儚くても強さを忘れてはいけない」と語りかけてきたように感じられた、と言ったら考え過ぎなのでしょうか。

33年目のピヨ夫の日

昨日6月12日はピヨ夫の日でした。

…などと書いても殆ど誰にも通じないと思うので、15年前(2001年6月12日)に書いたブログの、この日についてのエントリを引用することにします。乱文ですがご容赦を。

18年前の今日、まだ私は小学校4年生だったが、当時完成したばかりの竹園公園から大清水公園にかけての遊歩道を中心に「まつりつくば」が開催されていた。昼間は梅雨入りした割には天気もよく、当時のつくばとしては非常ににぎやかであったが、夕方になると重い雲があたりを立ちこめ、終いにはぽつり、ぽつり…と雨が落ちてきた。私は家に帰ろうとして自転車置き場に向かう途中で、彼と出会った。それは、露天のおじさんが売っていたニワトリのヒヨコだった。箱にぎゅうぎゅう詰めにされて何となく狭苦しそうだった上に、先ほどから降り始めた雫の下で鳴く声が当時の私には何となく悲哀に聞こえた。既に正価の半額となってたこともあり、ヒヨコに同情(?)して言った「1羽ください」。そして、その側面に丸く穴の開いた紙袋に入ったヒヨコを抱え、家路についた。
…とまあ、ここまではまあどうでもいいんだが…。当時の私が住んでいたのは公務員宿舎、つまりは団地だった(w。しかも4階である。親はその様を見てあきれ果てた。「そんなの買ってきてどうするつもりなの!」…そりゃそうだ。幾ら今は小さいとはいえ、彼はニワトリである。大きくなればかごで飼うわけにもいかないし、そもそも朝には派手に鳴くであろう。(しかも…次の日は父の誕生日だったり…「俺の誕生日の前日に…とんでもない子だ」と思ったに違いない(w。)しかしもう後には引けなかった。親もその辺は分かっていたらしく、それ以上は特に何も言わず、割と協力的だった。初日はとりあえず段ボールに入れ、そこにお湯を入れた瓶をタオルでくるんで作った湯たんぽを入れて、彼を寝かせた。私は彼に「ピヨ夫」という名前を付けた。その後、ピヨ夫はめざましい成長を遂げ(笑)、1週間で段ボールでは手狭となってしまった。仕方なく、それ以降はベランダで飼うことにした。正直言って4階だったので「落ちたらヤバいんじゃないのかなぁ」と思ったが、結局ピヨ夫は落ちることは一度もなく、ベランダを我が物顔で歩いていた。
ピヨ夫と一緒にいることで色々分かったことがある。よく「ニワトリは3歩歩くと忘れる」などと言うが、それはどうやら嘘らしいと言うこと。と言うのも、ベランダの窓を開けると必ずと言っていいほど、その方に駆け寄ってきたし、外に散歩に出しても主人のそばを離れない。その行動は結構愛らしく、周囲の友達もピヨ夫を結構気に入っていたようであった。
そのまま夏休みになり、家族旅行で山梨に行ったときなどはピヨ夫を洗濯籠に半ば押し込め(^^;、車で連れて行ったりもした。が、夏休みの終わりの頃になると、さすがに親もこのままにしておく訳にいかない、と思ったらしく、「学校で預かってもらいなさい」と言い、小学校のニワトリ小屋に連れて行くことになった。学校に着いて飼育小屋に入れようとするが、ピヨ夫はなかなか入ろうとしない。仕方なく、私が奥に入り待つことにした。…よし、入った!と思っても、こちらが出ようとすると進んで先に出ようとする。さすがに暑い最中にこんなことを繰り返しているわけにも行かず、終いには強引に押し込んでしまった。帰り際、寂しいそうに鳴くピヨ夫の声は暫く頭に焼き付いた。まあ、もっとも小学校に行けばいつでも会えるのだが…。
この後新学期が始まり、ピヨ夫を中心とし、上級生の女子を巻き込んで色々思い出深い出来事が起きるんだけど、敢えてその話はここではしない:-)。ただ、当時の私はニワトリにすっかりご執心状態となり、当時周りには「ニワトリキ○ガ○」と言われるほどだった。…って、なんか中学校のラピュタにハマった際にも同じこと言われてた気がするんだけど…(^^;、どうやら何かに「ハマる」とそれだけになってしまうと言う悪い癖はこの頃から始まった気がする。そしてそれは今も変わらない(コラ。
ちなみにピヨ夫はその2年後、残念なことに実験対象として近隣の研究所に連れて行かれることとなったそうなのだが、実はこの辺は私も詳しく知らない。と言うのも、私は直前に転校してしまってその小学校を去ってしまったから。…がその場に居合わせなくて幸せだったかも知れない。そのおかげで18年経った今でも楽しい思い出であり続けるのだから。(以下略)

33年経った今でもこの日を覚えているものの、別に何か特別な催しをするわけではなく、いつもとほぼ同じ日曜日を過ごしていたのですが、夜、家内からわしの留守中にあった出来事を聞きました。

「朝、尾が青くて長い綺麗な鳥が、家の周りをまるで中を覗き込むように飛び回っていたよ。あれ、何ていう鳥なのかしらね。」

そう聞き、わしが「今日はピヨ夫の日だったんだよ」と伝えると、普段はあまりロマンチックなこととか言わない家内が「きっと、ピヨ夫が生まれ変わって様子を見に来たんだ」などと言っていてちょっとだけジーンときました。「ああお前、帰ってきたんだな。33年目の、あの日と同じ日曜日に。…でも、お前と初めて会ったのは夕方だったのだから、今日も夕方に来てくれれば再会できたのに。」などと、まあ、そんなことを考えてしまったりしたのでした。

ダイヤトーンサウンドとの決別

昨夜、ダイヤトーンのかつての名器ともいうべきDS-10000 Klavierの極上中古がヤフオクに出品されていることを知り、特にエンクロージャーの仕上げの素晴らしさ(私見では、そのまま宮内庁あたりに納めたと言われても信じてしまいそうなくらい)に惹かれ、一瞬本気で落札してみようかな、などと考えましたが、かつてのオーディオ遍歴の中でダイヤトーンとは決別を選んだ以上、おそらく入手してもあまり満足できないだろうなと思い、考えを改めました。

このエントリーでは、そのダイヤトーンサウンドと決別を選んだ時の話を書いてみたいと思います。

「スピーカーを買い換えるから、一緒に試聴に付き合って欲しい」、父にそう言われたのは1993年の初夏の頃だったと記憶します。それまで、自宅の父のオーディオシステムはソニーCDP-777ESA、山水AU-D907XD、ダイヤトーンDS-77HRを中心としたシステムで、わしもそのシステムの音で耳を鍛えてきたこともありスピーカーの買い替えとなればそれは自分の基準が変わることを意味しますので、非常に強い関心と期待をしつつ、秋葉原のオーディオ店に向かいました。
そのオーディオ店はいわゆる専門店で、スピーカーも量販店では殆ど目にすることのないような高額なものが並んでおり、それだけで圧倒されてましたが、父は「クラシックを中心に聴く」とのことで、お店の方のお薦めでタンノイStirling/TWや、当時人気を博していたソナス・ファベールのELECTA AMATORなどを聴きましたが、それぞれに良さがあれど、何かこう独自の魅力に欠けるというか…。そしてその次にインフィニティのKappa 7.1iとRenaissance90を聴いたのですが、Renaissance90は一聴して「ああ、これは他のスピーカとは違う!」と感じたのでした。特に違う、と思ったのは中高域で、他のスピーカーはシンバルやハイハットが「シャンシャン」と当たり前のような音で鳴るのに対し、Renaissance90は「スンスン」と若干引っ込んだ感じになるものの、金属を叩いているというその質感が物凄くリアルだったり、他のスピーカーは音が前に張り出してきてそれが音場を形成しているのに対し、Renaissance90はスピーカーの後ろ側も含め、音がその場の空気として漂うような音場感を形成したのです。特に後者はこれまでわしがスピーカーで経験したことのない音だったので、大変驚きました。そして、これらを聞き比べたのち、父は私に「どれが良いか」と聞かれ、わしは「タンノイは定位と良さと素直な音でクラシックには良さそうだが、他ジャンルではおそらくその帯域の狭さが気になると思う。ソナスはとても綺麗な音だけれど、交響曲では迫力に欠けそう。Renaissance90はかなり独特で、高域がちょっと物足りない気がするけど、音場感が独特で面白い。」と一通り答えた上で「他のスピーカーの音であればダイヤトーンと同じ傾向の音と言えるが、Renaissance90の音だけは他の国産では恐らく出ない音だと思う。Renaissance90が良いのでは」と締めくくりました。父も元々本命がそれだったようで、一方で予算的な理由からKappa 7.1iで済むのであればそれに越したことはない、と考えていたようですが、音以外にも接続端子の作りなどにかなりの差があったりしたことから、結局Renaissance90を購入することになります。自宅に到着後は、試聴時にも気になっていた高域の物足りなさと鳴りっぷりの悪さに父は大変苦闘し、結局アンプをセパレートに買い替えるなどして満足な音になるまでに数年を費やすことになるのですが…。

そんなことがあってからおよそ5年後、わしも社会人になって半年経ちだいぶ落ち着いてきたことから、今度は自分のシステムを刷新しようと思い立ち、「まずはスピーカーからだよなあ」ということで、かつて行った専門店でダイヤトーンDS-1000ZXとインフィニティKappa 6.2iを試聴することにしました。正直言えば、インフィニティは父が苦戦した過去を知っているだけあって、音さえ満足すればダイヤトーンにしようと考えていました。が、結局、ここでもハイハットの金属の質感のリアルさに差がありすぎて、結局インフィニティを選ぶことに。ダイヤトーンもさすがにDS-77HRよりは優れた音であり、とてもバランスが取れている整った音だったのですが、あらゆる評価項目で100点満点中全部80点という感じがあって、中途半端な感が否めなかったのがマイナスポイントでした。その約1年後に三菱電機がダイヤトーンの事業を縮小することになり、これが結局最後の別れとなってしまいました。その後、Kappa 6.2iも4年足らずで現行のリファレンススピーカーであるIRS-OMEGAに置きかわり、今日に至ります。

わしがダイヤトーンサウンドとの決別したのは、結局のところ最初にRenaissance90を試聴した時に感じた「ダイヤトーンと同じ傾向の音」が、DS-77HRの10年後の上位機種であるDS-1000ZXでもその印象が変わらなかったことがその要因として大きかったのだろうなあ、と思います。もっともその一方で、本当のダイヤトーンサウンドが目指す「ハイエンドな」世界を聴いてみたかったのですが、それが叶わなかったことは自分のオーデイオライフとして今でも悔やまれます。

30年前の今日、その2

せっかく30年前をフラッシュバックしたので、その新しい家に着いたあとの話も「老いて忘れてしまう前に(笑)」少し綴ってみます。

* * * * *

新しい家に着くと、恐らく引っ越しをお手伝いいただいた方々が昼食を取られた直後だったのでしょうか、沢山の大人の方が少しずつ帰られて行く姿が見られました。家の中には沢山の家具と段ボールが山と積まれていて、テレビも見られないなあ、何をして過ごせばいいんだ…とまたも途方に暮れましたが、そんな中で、これまで奥にしまわれていて見ることが出来なかった1980年8月号のコロコロコミックがあったので、それを読んで夕方までを過ごしていました。

夕方にはその頃通っていた剣道の稽古があるので、引越前の家に置いてきてしまった自転車の搬送を兼ねて、その自転車置き場の前まで親の運転する車で向かいました。つい今朝まで住んでいたはずなのに、その前の家とは急に距離が離れた気がして、不思議な気持ちになったのを覚えています。

剣道の稽古は、その日卒業式を迎えた上級生の壮行稽古ということもあって、稽古後に写真撮影をしたりしました。この上級生の中には、先述の気になる女性が含まれていた訳ですが、このときの方が卒業式のときより「ああ、もうこうやって稽古することも無いんだな」と寂しい気持ちになっていました。そしてその帰り途、その女性とその兄弟との家の方向が同じになったことで、自転車で一緒に帰ることになったのですが、今で言うところの「つくば公園通り」の竹園公園のあたりで、その弟さんが猛スピードを出して先に行ってしまい、急に照れくさくなってしまった私もそれを追いかける態でその女性とはそこで分かれてしまいました。この「恋」というのには小さすぎる想いも、そのときが一区切りになったのです。自転車のスピードを上げ過ぎたため、春というには冷たい風のせいなのか涙目になりながら、でしたが。

さて、新居に自転車で戻ると窓の明かりが見えない…。また置いてきぼりを食らったかと一瞬焦りましたが、リビングには断熱戸があり、それが閉じていたためと知り安堵しました。そして、その日は家族と共に筑波大学付近の中華料理店「珍来」で夕食をとり、比較的荷物の少ない主寝室で4人川の字になって寝ました。

次の日は私自身の終業式であり、そして転校の日でもありました。そして、そのときの担任の先生も結婚するとのことで職場を退くと言う話もその日に聴き、昨夜のこともあって精神的に相当来ていたのか、下校直前には友達に別れの言葉を笑顔で言うつもりが、何故か涙がこぼれ落ちていました。まだ当時は「寂寥感」という言葉を知るはずもない私でしたが、これをきっかけに色々と将来について悲観的な考えを多少なりとも持つようになった気もします。

その日の午後にはケーブルテレビの線が繋がってテレビが見られるようになりましたが、電話線だけは「最寄りの電柱まで回線が来ていない」という事実が現場工事の方により発覚し、使えるようになるまで1週間ほど掛かりました、

転校先の小学校も剣道で縁のあった人が何人か居たりして環境としては良好でしたが、始まったばかりの科学万博などもあり、あまりにも新しい環境や状況が波のように押し寄せてきて、恐らく相当精神的に不安定だったのかと思います。毎日、学校帰りには上履きも含む全ての荷物を持ち帰り次の日にはその全てを持参する、という日が冬頃まで続きました。ランドセルを背負うのにも何故か抵抗感があって、いつもショルダーバッグで通学していました。また、剣道教室でもリーダに任命されたりもして、こちらもそれなりに気負いましたが、ただ剣道教室については転居後も以前同様のところに通っていたこともあって、むしろそこが自分の居場所として確固たるものがある分居心地がよく感じられたのでしょう、それまで「大嫌い」だった剣道教室が何故か比較的楽しい場所に変わっていきました…。

* * * * *

その剣道も、一昨年せっかく再開したにも掛からず先日辞めてしまいました。理由は色々ありますが、元々再開したきっかけが職場がリストラ等で混乱し日々疲労困憊で自分の居場所をそこに求めていた…というところで、その後、段々仕事も波に乗ってきてその必要が無くなったというか、いやむしろ、足枷とすらなりつつあったというのが正直なところです。かつて恩師たちの顔に泥を塗る形になったのは本当に心苦しく、申し訳ない気持ちでいっぱいですが、まあ、これも一つの結果と割り切って前に進むことにします。自省を兼ねてここに記しておきます。

30年前の今日

30年前、即ち1985年3月22日(金)の今日は自分に取って極めて印象深い日でした。

その頃、小学校5年生だったわしは、上級生の卒業式のためいつもと同じ時間に家を出ました。その家の中は、近いうちに新しい家に引っ越すこともあって、家具などが整理されていて若干殺伐としていましたが、それでも生活に支障が出るというほどでもなく、割とこれまで通りという状態でした。

卒業式では、当時気になっていた女性(上級生でした)が卒業と言うことで、ある意味寂しさも感じましたが、一方でそこまで深刻に捉えていた訳でもなく、むしろ卒業式自体は早く終わって欲しいくらいに思っていました。

さて、その卒業式も午前中にはつつがなく終わり、帰宅の途につきましたが、家の中に入って驚きました。朝には「これまで通り」だったはずの家の中がもぬけの殻。荷物も家族も何もかもが無くなっていたのです!「今日引っ越しだったのか…。」そんな話を全く聞かされていなかった私は途方に暮れ、仕方なく外で家族の誰かが迎えにくるのを待つことにしました。10分くらい経ったでしょうか、一台の車が目の前で止まり、知らない大人の男性がその車の中から「家まで送ってあげるよ」と声をかけてきました。「知らない大人の車には乗ってはいけない」と常に教え込まれていた私は少し戸惑いましたが、幾らなんでもこんなジャストタイミングで誘拐魔は現れないだろう…、と何の根拠もなかったものの、車に乗せてもらい、新しい家まで送ってもらいました。(その男性は父の職場の方で、引っ越しをお手伝いいただくために来ていたようでした)

その新しい家が、今私たち家族が住んでいる「自宅」になります。

30年という一区切りを迎えるにあたり、昨年末から自宅のリフレッシュを行い、まさに昨日夕方大半の工事を終えました。設備を新しいものにしたり、劣化したり壊れたところを直したりした程度で、間取り変更等を伴わない比較的軽微な内容ではありましたが、それでも家の中や外に足場を組んだり、台所が2週間近く使えないなど色々不便な思いをしながらも無事に終わり安堵しているところです。

建家自体が変わった訳ではないので、30年前のような新鮮さはありませんが、それでも新しい環境での生活のスタートには変わりありません。4年前の震災もなんとか耐えきったこの家、ここからまた数十年、私たちの生活をこれまで同様に支えていって欲しいと心から願っています。

交差する夢と平行線を辿る現実

夢を見た。それはかつて憧れだった女性との再会だった。偶然、彼女の勤務先に訪れることになった私は、さらに偶然彼女と再会することが出来、これまであった色々なことをお互いに楽しげに、そして自然体で話した。懐かしい彼女の姿は成熟こそしていたものの、纏う空気はあの日とちっとも変わっていなかった…。

現に返ったとき、それはもう二度と叶わないことであることを改めて知る。共に今を生きてはいるが、もはやその線が交わることはないほど離れている。試しにfbで彼女の姿を追ってみた。確かに纏う雰囲気にあの頃の面影を残していたが、それはもはや自分の活きる世界とは何の関係もないものだった。かつては交わった線、それを今更撚り合わせることは、むしろ失うもののほうが多いように思う。

まだ私が少年だった頃、すでに離れ始めた線を無理矢理撚り合わせようとして、彼女に再会した。未熟な私は彼女をただ見ていることしかできなかった。そしてそれが終わりの始まりだった。止めどない流れの中でその行為は極めて不自然だった。撚り合わせようとした線はむしろ致命的なほどに離れた。

平行する2つの線。それが撚り合うことが次にあったとしても、それは必然の中でこそ起こり得るべきだと今は納得している。それが二度とないことであったとしても、それはそれで一つの運命。しかし、私は日常的にそれを意識することはないにしても、たぶん彼女を忘れることは一生ないと思う。それはとても哀しいことだ。