Category Archives: 旧ブログ記事

大変ご無沙汰しております

茄子

今年の夏はYAMAHA NP-S2000あたりを狙っています。iPodやiPhoneで音楽を聴くのに慣れてしまうと、CDを入れ替えるのがとても億劫になりまして、以前なら「音質のためには(CDの入れ替え作業は)止むを得ない」と我慢してましたが、近年ではこの手のネットオーディオの方が音質が良いことが多く、「手間を掛けれどそのリターンは限りなく少ない」となると何だか少々腹立たしい気すらしつつあります。
幸い、家にはDLNA対応NASやiPhone、iPod touchが既にありますので、NP-S2000を入手するだけで所謂「フルシステム」になるというのも良いです。早く茄子出ないかなー。

大変ご無沙汰しております

Songs for Japan

と言う名のCDを、Amazonで予約して購入しました。その理由はもちろんチャリティ的な部分も当然ある訳ですが、近年の洋楽をオムニバスで聴きたかった、というのも少なからずあったりします。
正直、’80sばかり聴いていて、特に最近はこれと言って気に入った曲が多くなかったわしでしたが、このCDは割と気に入ったかも。特に『ONE IN A MILLION』は最近の曲にも拘らず、わしの琴線に触れました。他の曲もメロディが印象的なものが多数。
それにしても、最近はポップスと言えど帯域レンジが広いのね、などと思ったり。先の曲にしても、メインのシステム以外では低域がきちんと聞き取れません。

大変ご無沙汰しております

iPhone 4を購入した

とても今更感がありますが、これまで使っていたiPod touh 2ndのバッテリーがくたびれてきたことや、今後災害が発生した際の通信路の確保という目的のもと、家内とともに4月に購入。これにより携帯はこれまでのドコモのフィーチャーフォンと共に2台持ちになり、N-04BのAPモードと組み合わせることにより、以下の組み合わせの通信路を確保しました。

  1. ドコモ音声通話回線
  2. ソフトバンク3G音声通話回線
  3. ドコモデータ回線(i-modeメール)
  4. ソフトバンク3Gデータ通信回線(MMSやiPhoneアプリによるEメール、Twitter、VoIPなど)
  5. ドコモデータ回線+iPhoneアプリによるEメール、Twitter、VoIP
  6. その他WiFi環境+iPhoneアプリによるEメール、Twitter、VoIP

まあ、これだけあってもダメなときはダメなんですけどね。なお、VoIP用のAppはSkypeの他、Tangoなども入れてみました。他方、iPhoneにはMapfanを入れたり、懐中電灯など災害時に役に立ちそうなものを幾つか入れておいたり、日常的に使用しそうなものをも入れておきました。

で、使ってみた感想としては「なんでさっさと買わなかったんだろう」と思う位わしには便利な代物でした。通信料はドコモのパケホーダイ上限額よりiPhoneのパケット定額の方が安価なため、トータルとしてはむしろ以前より下がっていたりします。

出来れば当初の目的の一つである「災害時の通信路確保」として使わないで済むことに越したことは無い訳ですが…、まあ、何があるか分かりませんからね。備えあれば憂い無し、と言ったところでしょうか。

大変ご無沙汰しております

この2ヶ月間

特に忙しかったわけでもなく、かといって震災によって精神的に参っていたとかそう言う訳ではないのですが、何となく日記を書く気分になれなかったというか、そもそも日々の生活の中で「日記を書く」という行為自体がそのサイクルから外れてしまっていて、「さあ書くぞ〜!」とならない限りどうしてもさぼりがちになってしまうのでした。
という訳で、今夜は「書くぞー」となったのでこれまであったことをエイヤッと書こうかと。

先日の日記について

地震当日の内容の日記「March 11,2011(Fri)」について末尾に「続く」としたものの、何だか続きを書く気力がなくなってしまいました。そもそも、元の内容自体の文が所々変なので、推敲した上で「続く」を取ってしまおうかと思案中。
ちなみに、続編で書きたかったことは、「実家への避難の道程と避難生活」、「計画停電と首都圏交通網の麻痺」、「物流網崩壊」、「非常事態でも日々は回る」、「避難生活終了後と、真の帰宅」とかそんな内容だったのですが、取り立ててたいした内容にならない気もして来たのと、それから、福島第一原発事故がとても悲しくて少し落ち込んでいること、が書く気力を失ってしまった理由だったりします。
原発事故については、危機管理体制がどうだとか、現場の人の頑張りであったりとか、それから中学時代の同級生から頂いたとてもいたたまれないメールとか、色々考えであったり思い巡らすものがあるのですが、それらを取り敢えず横に置いた上で、これまで我々の生活を支えてきた基盤の一つであり、少なくともかつての一時期には「資源の少ない日本にあって未来のエネルギーとして切望されていた」ものが、こんな形で終焉を迎えるのか、と思うととても悲しいです。
26年前の科学万博にて私が好きだったパビリオンの一つに「エレクトロガリバーの冒険 電力館」があるのですが、ここでは原寸大の原子炉の模型があり、「これからのエネルギーは原子力が担っていく」ということを非常に強くアピールしているように私には感じられました(ちなみにチェルノブイリ原発事故はその1年後)。また、近年でもつくばエキスポセンターには原子力発電所や放射線についての展示があり、明らかに「エネルギーの主軸の一つ」としての説明がされていました。後者はともかくとしても、少なくとも前者は何も知らない私にとって「原子力という素晴らしい技術で、ますます明るい未来が切り開かれて行くんだな」と信じて疑いませんでした。その後、実際には国内でも幾つか事故があったのも確かですが、それ自体が我々の生活に影響をもたらすほどのものではなかったこともあって、チェルノブイリは所謂「特殊な例」として捉えていたというのが正直なところです。しかし、今回の福島の件によってチェルノブイリは「特殊な例」とすることは間違いであったことを知らしめられました。また、この今回の事故により原子力はどうやらこれからの未来を支えるエネルギーでは無くなったようです。
そう思ったとき、かつて好きだった「電力館」での思い出や、そこから波及して知り得た知識や考え方の全てが否定されてしまった気がして…それがとても悲しいです。
実際には今回の事故でとても厳しい避難生活を余儀なくされている方や、実害を受けている方、そして健康被害に不安を抱えながらも避難も不可能な方たちが居ることは十分理解していますし、特に健康被害については、乳児を抱える一人の親として私自身も極めて強い懸念を持つところであり、そんな中「思い出や考え方の否定くらいで何を悲しんでいるのか」と非難されるかもしれませんが、信じていたものが裏切られるときというのはとても悲しいこと。電力館のテーマソング「すてきなラブ・パワー」をYoutubeで再生しつつ、そんなことを考えるのでした。

間が空いてしまった

March 11,2011(Fri)

その日の朝はとても憂鬱だった。
以前PMOとして進めていたプロジェクトは昨年一区切りがついたところで後任にバトンタッチをし、立場上はアドバイザーになって身を引いた形になったが、その後当初の懸念通り益々混沌としてしまい、もはやアドバイザーとしてだけでの参画では済まされない事態になりつつあった。先日のミーティングでも、メンバーのあまりの危機感の無さに思わず机を叩くほどの激高を禁じ得ないほどだった。「こんなことならPMOとして推進している方が幾分楽だった」そんなことをふいに考えながら、いつも通り自宅のドアを開けた。外に出てみると厳しかった冬の寒さも幾分和らぎ、鳩が鳴いていた。その様を見て「世の中では私が幼い頃から寸分違わぬ朝を迎えているというのに、私だけが何くよくよしているんだ。もう少し気楽に考えよう。」とほんの少しだけ気を取り直し、プロジェクトの拠点となっている某物流センターに向かった。
某物流センターは一昨年の11月に竣工した最新の倉庫であり、アメニティ、セキュリティ、そして防災設備に至るまで都心のオフィスビルと見紛うほどの設備を有しており、これ自体も先述のプロジェクトの成果でもある。送迎バスがそのセンターの車路を徐行している際、ふと目についた物があった。それは免震構造であるが故の土台と建屋の隙間と、その部分の雨樋配管の接合部であった。そういえば水曜日にもそれなりに揺れの大きい地震があったが、実際に大地震が来たらどんな風にここが動くのだろう、などとぼんやり考えていた。まさか、それがその日のうちにそれが起こるとは想像だにしなかったが。
14時46分頃、私は大会議室でスケジュールの打ち合わせをしていた。現状把握を行うにあたり直近のことが全く決まっていなかったため多少本題から脱線したが、それが終わっていよいよ本題に入ろうとしたとき、縦揺れが起きた。最初は一昨日に来た地震と同じ様であって、「震源は比較的遠いが、割と大きい地震かも。ただ、この辺は大丈夫だろう。」と思っていた。しかし、一昨日よりも明らかに揺れる時間が長く、一旦収まるかと思ったら増々強さを増してくる。メンバーの一人が「これは大きい…!」と言うのが聞こえる。揺れは免震装置のせいもあるのだろう、悪路を走る乗り物のような揺れが止めどなく続く。「これは大変だ」そう思ってメンバー全員が会議室を出て窓のある部屋から外を見る。センター横の湾岸道路では全ての車が停止し、駐車場のトラックが激しく揺さぶられている。入り江では明らかに通常の波とは異なる波紋が広がっている。まだ揺れは収まらない。「地震情報、テレビを見よう!」と別のメンバーが言い、大会議室に戻ってそこのテレビを付ける。そこには最大震度が7であることや自宅近辺が6強(または弱)であったこと、そしてこれまで見たことの無い「大津波警報」が表示されていた。揺れは一旦収まり、再び窓のある部屋に行く。センターからは都内を一望出来るが、明らかに火災の煙と思われるもやが次第に上がって行く。そして長くて強い余震が襲って来た。こうした状況を見て私は「ついに関東にも大地震が来た」と確信した。揺れの最中に既に頭をよぎったのは「家族や家財」であったが、大地震直後は電話はまともに使えないことを理解していたので、携帯や会社の電話でコンタクトを試行しつつテレビから情報を得ることにした。
テレビは最初都内や津波が襲う前の東北の港町を映していて、それ自体を見る限りでは家屋の倒壊はそれほど大きくなかったようにも見える。しかし、地震直後の仙台の映像を見て岩手出身のメンバーの一人は「東北は大きな地震が多いので比較的慣れているが…しかし、ビルの窓がこんなに開いているのはおかしい。これは恐らく割れている。これほどの地震はあまり経験がない。」と言うのを聴き、不安になった。そういわれてみると、同じ映像に映っている立体駐車場屋上の車の位置が明らかにおかしい。ラインをはみ出しているのはもちろんのこと、明らかに他の車にぶつかったと思われる物が多数ある。仙台でこれほどであるとすると、流石に自宅近辺も無事では済みそうでは無いことは何となく想像出来た。早く家族に連絡を取りたいが、電話はつながらない。焦燥感だけが募って行く。そしてそうしているうちにテレビは現実とは思えないような光景を映し始めた。先ほどまで何も無かった東北の港町が、津波…波、というより私には海自体の水かさが増して溢れ出したようにすら見えたが…に飲み込まれて行く。ついさっきまで車が走っていた道路の横の岸壁が、おびただしい海水によって海と岸壁の境界すら分からない状態になっていく。本来跨道橋のはずの高架も、海を渡る橋のようになっていく。そんな中、前後ともに波に阻まれ逃げ場所を失った車が右往左往する姿や、波に飲まれまいと必死に走って逃げる人の姿などが見えた。先ほどの東北出身のメンバーが「津波で流されていたあの車、ライトが付いていたということは…」続きは聞くまでもなかった。私もあまりの惨状を目の当たりにして、思わず「とても現実とは思えない、悪夢を見ているかのようだ。」と口走ってしまう。
何度かの試行のあと、やっと家内に電話がつながった。「長男を迎えるため幼稚園に行っており、外に居たため全員無事」、「幼稚園園庭が臨時の避難所のようになっており、皆そこにいる」、「周りを見渡す限りは家屋の倒壊などは特に無いようだが、他のお母さんからはテレビが落ちて壊れたという話も聴いている」という話を聞くことが出来た。私からは「先ずはそこで皆と共に行動すること」と「自宅では色々な物が倒れたり壊れている可能性があるので気をつけること。可能であれば改めて連絡して欲しい」と伝えた。
その後、自分の席がある本社やサーバ室のある拠点等、並びに実家が無事であることを確認した後、改めてテレビを見ていたが、状況は増々凄惨さを増していく。市原市の精油所の火災がテレビに映し出されたあと、窓の外を見ると確かに炎と黒煙がその方向から上がっているのが見える。余りの状況が一気に押し寄せて来たためか目眩と吐き気が襲ってきたが、ぐっと堪えながら取りあえずセンターの自分の席に座った。そして、自分が帰宅困難者となってしまったことを思いながら、どうするかを考えていたら自宅に到着した家内から電話が入った。「家に帰ったが、リビングではスピーカが倒れたり食器棚から食器が落下して粉砕され床に散乱、洗面所は入り口のタンスが動いてしまって入れない、二階の寝室も本棚が入り口を塞いでいて入室出来ない。その他の部屋も軒並みめちゃくちゃ。」と地震発生直後より明らかに動揺している様子であった。そしてその様を見て長男がずっと泣き続けているとのことであった。幸い、テレビは「落下しそうだが持ちこたえている」、ライフラインも「水が普段より流量が少ないものの出てはいる、電気等も問題ない、ガスも使える。」とのことだったので、比較的無事だった和室で寝られるようにすることと、夕食をコンビニなどで調達すること、移動の際には自動車を使用しないこと、それから余震などもあるので片付けは後回しにして、出来るだけ安全な場所に留まること等を告げた。
正直、こういう状況になって懸念すべきはパニックになってしまうことであり、そういう意味では家内はたまたま外出していて知人と一緒だったため救われたとも言える。自宅に居てこの地震に襲われていたら、仮に怪我がなかったとしても平常心では居られなかっただろうと思う。しかし、自宅に戻り家内が幾らか動揺していることや、長男がパニックになっていることを考えると、いくら帰宅困難と言えど帰らざるを得ないと考えた。念のため、上司に「最悪の場合タクシーを使用して帰宅」することを承諾してもらったが、タクシーはどうせ捕まらないことは分かっている。実際、タクシー会社に電話を掛けてもつながらなかった。徒歩で帰るにしても単純計算で10時間以上かかり、現実的ではない(そもそも、道路が安全である保証も無い)。
どうするか悩んでいたところ、自動車通勤者が各方面ごとに帰宅困難者を自宅まで送ることになり、私は物流会社社長の車で送ってもらえることになった。普段であれば2時間程度の道のりであるが、およそ6時間ほど掛けて23時50分頃自宅に到着した。結果論ではあるが、これは物流センターへ出勤していたことが幸いした。もし、いつも通り本社に出社していたらこの日の帰宅は諦めざるを得なかっただろう。自宅に到着して大きな声で「ただいま」と言い、家族たちの無事な姿を見て安堵し、自宅の被害状況を確認した。幸いにも、スピーカはそれぞれ倒れこそしたもののその下にあったものが緩衝材として作用したため無事、それ以外も派手に壊れたものはほとんどなく、被害は軽微であった。一方、テレビはCATVがダメになっているのか地デジが見れず、インターネットも不可であったため、BSを見て情報を得ることに。そして、とりあえず余震も続いていることから片付けは後回しとし、浴槽に水を張って寝ることにした。とはいえ、気が張ってしまっていることや、度重なる余震とそれによる緊急地震速報のエリアメール、そして夜中にも拘らず飛び続けるヘリコプターの音などで碌に眠れなかったが…。
次の日の朝、水が出なくなっていた。いつのまにか復旧したインターネットでつくば市のwebサイトを見ると、どうやら暫く断水となり、復旧の見込みも無いらしい。部屋をそれぞれ片付けたあと、私たち家族は実家に避難すべく、車にて小平市に向かうことになった。(続く)

間が空いてしまった

ご心配をおかけしました

本日記のコメントや色々な方からご連絡を頂きましたが、避難生活も断水が解消したことから16日で取り敢えず終え、今は自宅で過ごしています。市内の大型店舗は未だ立ち直れておらず、物資も物流が復活したため比較的良好とは言えど今度は原発事故で偏りが発生していますが、まあ、生活に困るほどではないかな、と言ったところです。
皆さん、色々有り難うございました。これからも困難が続くでしょうが、頑張っていきましょう。

東北地方太平洋沖地震

書きたいことは色々ありますが

取り急ぎ、「家族はわしを含め全員無事であったこと」、「家財についても今日時点では大きな損害はなかった」ことを報告させて頂きます。
実際のところ、スピーカが倒れたり食器が割れたり…etc、色々ありましたが、わし自身は免震構造のビルに居たために無事、家族もたまたま全員外出していたため難を逃れました(自宅に居たら心身共にヤバかった可能性があるだけに幸いでした)。また、私は一つ間違えれば帰宅難民の可能性もありましたが、職場の方に車で送って頂いたため、日が変わる前に自宅に到着出来ました。
…しかし、自宅近辺が今日に至っても断水していてその復旧の見込みも無く、生活に支障があることから、昨晩から家族全員で私の実家に厄介になってたりします。気象庁によれば、この3日間にM7以上の余震が70%の可能性で発生しうるとのことですが、出来ればこの予想は外れて欲しいと願うばかりです。

思い出話と現況の狭間

高校時代にお世話になった方々と

かつて高校時代に放送部でお世話になったShinya氏と私と同期のRさんが当方の家に遊びに来てくれました。この三名が集まるのは実に15年以上ぶりになるわけですが、その間、お二方は学問の世界に身を置かれ続けられています。そして、その状況を聴いていて思ったのは「当方が好き勝手な日々を過ごしている間、お二方とも勉学に勤しまれ、気付くと学の世界では歴然たる差が付いていたんだなあ」ということでした。
…と、なんだか学歴コンプみたいなことを書いていますが、実はそれだけではなく…。
昨晩、私の両親が諸用にて我が家に一泊した際、久々に両親といろいろと話す機会があり、Shinya氏を含めた色々な方の現状を聴いたのですが、その中で、母に「お前も自分のためになると思うのなら、大学院で学んだ方が良い」と言われました。それ自体はいつも「生きることは常に学び続けることだ」旨を私に言い続けている母のことです、特に珍しいわけではないのですが、それに対して私が「しかし、それが今の仕事や生活の何に役立つのか分からない」と答えると、父から「院を出ることは間違いなく何らかの価値がある。仮に修士であっても、論理的思考は今のお前よりしっかりした物を持つことが出来る。」と言われてドキッとしました。私は今の職場において「どちらかと言えば論理的」という評価を受けている部分があると(勝手に)思っているのですが、一方で、面倒になると「まあ、そこまで考えなくてよいか」と論理的思考を一部放棄・逸脱して結論に導いてしまう強引な部分が少なからずあることを自覚しています。それだけに、私にとって父のこの発言はとても重いものになりました。
学歴という名の「ステータス」的なものを除いて、今の私にとって院に行き、何らかの学位を得ることによるメリットがあるとすれば、「今の職場という極めて限られた狭い範囲を超えて、より社会に貢献しうる人材となるために、更なる広い視野と探究心、そして論理的裏付けの能力を得る」ことになるのかな、と更なる学位を得ることについて分からないながらもそう理解しているのですが、この能力を得、それを活かすには恐らく今まで歩んで来て、そしてこれから歩もうとしている道から大きく飛躍をして、新しい道を見つけなければならないなあ、と思っています。そして、言い訳じみていますが、それには今背負っている物があまりにも重過ぎて…。
私は学生時代、学校での勉強がとても嫌いでした。それは辛くて苦しいことから逃げたい、という意図があったのはもちろんですが、それ以外に「それが何の役に立つのか理解出来ない」こともその理由の一つでした。その頃、母には常に「将来、後悔する」と言われ続け、そして実際に後悔することになったのですが、今回の件も「今の自分の何の役に立つのか理解出来ない→だから院への検討は極めて消極的」と言う部分についてはその頃ととても良く似ています。これらのことに今敢えて目をつぶって今後歩むと想定される道をただ歩み、結果後悔することになるのか、それとも、今はその意味が分からなくとも飛躍を夢見て勝負に走ってみるべきか、結果としてどちらが良いのかは、今、真剣に検討すべきことなのかもしれないなと考えさせられました。

かつて共に学び、共に働いた人と

旧友に電話

私はここ数年仕事がとても忙しかったこともあって、かつての友人とほぼ音信不通と言っていいほど連絡を取っていなかったのですが、ちょっとした用件もあって、LEE氏に久々に電話連絡をして、少しだけ話をしました。

彼とは学生時代のサークルと、前職で共に歩んだ仲で、家内との出会いも彼無しにはあり得ないわけですが、お互い宇都宮を離れてからというもの、年賀状以外の連絡は取れずにいました。で、久々の電話でお互いの境遇を話したのでしたが、そこで出た話の一つに「前職はなんてヌルいところだったか」というのがありました。

でも、私はその「ヌルさ」がきっかけとなって、逆に今の自分があることもまた事実であると認識しています。

これまでの日記でも何度も書いている通り、横須賀時代はどうしようもなく忙しい中でただただ振り回されるばかりの日々でした。「こんな苦しい思いをするくらいなら、多少安給料でも時間が取れるところに行きたい」と思い立ち、前の職場に転職をしたわけですが、そこは横須賀のそれがまるで夢か幻かのごとく、とても静かな日々が過ぎて行きました。当初「うん、ここはとても良かった」と思い、実際、横須賀時代に携わった某システムが大障害を起こしてニュース沙汰になったときは、勝利宣言とばかり「ざまーみろ」と大声を挙げて笑ったものでした。

しかし、暫くするとその静かな日々がむしろプレッシャーとなっていきました。「かつての自分は、あの凄まじい環境の中で、振り回されつつもなんとかやってきて、結果としてスキルも得たのだけれど、この静かな環境ではそれが無い分、世の中に取り残されてしまうのでは…」そして、そこから「将来の自分はどうあるべきか」、「何を糧に今後生きて行くか」を真剣に考えるようになりました。それまでは情報システム以外にも音響技術者としての夢も捨てきれずにいたのですが、「もはや自分には情報システムを極める以外生きる道はない」と決断し、そこから静かな職場で他の作業の合間に一人インターネットなどで情報を収集しながら、地方に居ることが不利にならないようにと、自分だけで出来ることをとにかくどんどん実践して行きました。幸い、その職場はそれらを実践するにはちょうど良い規模だったこともあります。

なお、余談ですが、会社でのメールの署名は通常、

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株式会社○× △△△部 □□課
鳴沢 大気
〒123-4567 栃木県宇都宮市XXX-XX
TEL : XXX-XXX-XXXX  FAX : XXX-XXX-XXXX
E-mail : narusawa@marupeke.co.jp
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

のように、社名が先に来て、その後名前がくるように書くことが多いと思います。しかし、私は先ほどの決断をして以来「株式会社○×の鳴沢さん」ではなくて、「鳴沢って言う(とてもクレージな)ヤツが株式会社○×に居るんだ」って言われるようになりたい、という思いから、


鳴沢 大気(Hiroki NARUSAWA) E-mail : narusawa@marupeke.co.jp
株式会社○× △△△部 □□課
TEL : XXX-XXX-XXXX  FAX : XXX-XXX-XXXX

という書き方に改めました(ちなみに今の会社でもそれを続けてます)。

その後月日が流れ、職場に出入りしていたシステムベンダが私が作ったシステムを外販したい、と持ちかけてきました。そしてその際、そのベンダの社長が私について、自社の取締役に向かって「引き抜き対策とかはされていますか」とお話しされているのを聴き、それが自信に繋がり転職活動を開始して転職成功…、で今に至ります。

とまあ、なんだかエラく上から目線な感じの内容で、まるでそこからサクセスストーリを歩んで今は悠々自適の生活…みたいな話になってしまいましたが、実際にはそこからも色々あって、決して道はまっすぐではなかったことは、過去の日記にも書いた通りだったりします。ただ、横須賀時代での苦しい日々を経験し、その後自らの意思でスキルを得た身としては「もう一度、横須賀時代のような無理が出来るかどうか試してみたい」との思いも少なからずあったためか、昨年までの激務は確かに辛かったとはいえ、横須賀の頃のそれよりは遥かに楽しんでいたようにも思います。

長々と書きましたが、そのようなきっかけを作ってくれた前職の会社が「システム要員を募集している」と教えてくれたのも実はLEE氏だったりします。こうして振り返ってみると、職場での人間関係も大切ですが、それ以外もとても大切で、それがきっかけで人生そのものが岐路を迎えることすらある、ということを改めて知らしめられた次第です。