Category Archives: 雑記

令和元年も暮れて…

ご無沙汰してます。と言っても、誰も見ていない…いや、暫く放置していたらいつの間にかここが表示されなくなっていて、しかし忙しくて結局そのまま放置したままだったから、誰も見られなかった状態だったわけですが。

気付けば令和初の年も暮れて…、例年通り家の中を大掃除したり、年賀状を書いたり、正月飾りを設置したりと、まあそれなりに正月を迎える準備をしているのですが、今年ほど年末の実感が乏しいのは珍しいかもしれないです。何だかとにかく忙しかったのですよね…。

そんな忙しかった日々の最中の九月末に自動車を乗り換えました。車種はS22#型クラウンで私にとっては初のトヨタ車になります。納車されて約3ヶ月が過ぎ…た実感は前述の年末の件と同様に乏しいのですが、満足度は高いです。静粛性の良さはもちろんなのですが、足回りが凄くいい。大きな入力があっても「シュタッ」という感じで軽くいなすし、車体が前後左右に振られず、ハンドリングも正確で運転しやすい。小刻みなコーナがある道路を走るのが楽しめるくらいです。相当にスポーティな走りで、クラウンというブランドネームから一般的に想像されるものとは違うような気がしますが、一台の自動車として見ればいい車だと思います。

しかし…、昔からの知り合いからすれば私がここまでトヨタ車をベタ褒めすること自体が想像できなかったのでしょうね。何しろ、学生時代は「私にとって自動車選びとは2つしかない。日産車かそれ以外か、だ。」などと豪語するほどの日産党でしたから。しかし、今の日産車には魅力的なものがあまりにも見当たらない…。ちょうど、V37スカイラインのマイチェンの発表前後で、そちらも少し考えましたが、知人の乗っている前期型に同乗させて頂いたところ乗り心地があまりにもドライバーズカーに寄り過ぎていることや後席が狭いこと、マイナーチェンジによりむしろプレミアム感がスポイルされたこと(Vモーショングリルになって欲しい、という声が市場にあったとは到底思えないのです)から食指が動かず、さらに言えば、色々「古いな」と。2014年発売ですから率直に言えば「1世代前の車だよなあ」と思いました。

一方、クラウンを買うのにも「日産党としてトヨタ車を買うのは裏切りであり、敗北でもある」という抵抗感が少なからずあり、さらにクラウンというと「高齢者が乗る車だよねえ」という印象もあって、どちらかと言えばトヨタ党の家内をもってしても当初は「えー、クラウン…?」、「地方の農家の高齢者が乗るイメージ(失礼!)」などという感想を述べていました。それ故、2回もMEGAWEBにクラウンを見に行ったりして、時間を掛けて検討をしました。で、いよいよ意を決してトヨタディーラーに行き、試乗…。アクセルをひと踏みして「うわ、なんて静かな車なんだ…」と思い、その後前述の通りハンドリングの正確さに驚いたのでした。

これまで乗っていたE52エルグランドもいい車でした。ミニバンであることを考えれば十分な走行性能を有していましたし、個体としてもトラブルは全くといって良いほどありませんでした。しかし、転職以降自動車で通勤するようになり燃費の悪さが気になり出したのと、重心の高さゆえに大きな入力が来たときに車体全体が揺さぶられる感覚がどうしても好きになれず、昨今の先進運転支援システムへの興味を含め、今般の買い替えを決めました。ただE52エルグランドとは色々な思い出があって、最後の日はとても寂しい気持ちになりましたね…。

と、何だか取り留めがない話になってしまったのでこの辺で止めますが、今年あった個人的には大きな出来事の一つとして、今更感はありますが記録に残したいと思い記した次第です。今年の総括は明日大晦日に書く「かも」しれません(汗)。

セピア色の写真の向こう側

先月末に高校時代に所属していた部活動の諸先輩がたとおよそ20年ぶりにお会いする機会があり、それ以来グループチャットでその日出席されなかった方々の近況や、思い出の写真や品々などを可能な範囲で共有したりしているのですが、私も試しに自宅のクローゼットを引っ掻き回してみたら、当時撮った写真のネガフィルムが出てきたので、今日、フィルムスキャンのできるフラットヘッドスキャナを入手して、取り込んでみました。

で、取り込んだものを見て懐かしい思い出に浸れるかなあ、などと思っていたのですが、取り込んだ写真の退色が想像より進んでしまっていたことや、それらの写真に写り込んでいる様々な場所・背景が自分の記憶から既に消えてしまっていたことに気づき、懐かしい、と言うより「もう本当に昔々の出来事に…遠い日のことになってしまったんだなあ」という気持ちになり、むしろ当時の思い出から突き放された気持ちになってしまいました。

一方で、「当時の自分に戻りたいか?」と自問したところで、「もし、やり直せるならやり直してみたいことはたくさんあるけれど、ただ、また同じことを繰り返すだけなら勘弁だなあ」とも思ったりもしたわけで、結局のところ今にそれほど不満もなくなっているのかな、とも思ったりもしました。

当時できて今はできなくなっていること、逆に当時はできなくて今はできること、それぞれ一長一短とは思いますが、今はできることを精一杯頑張ることが私にとって一番幸せなのかもな、と改めて感じた次第です。

「平成」時代の終わりに

元号が「平成」から「令和」に変わることで、自分や社会が大幅に変わるわけではありませんが、時代の1つの区切りとして何か書き残そうと思い立ちまして、筆をとりました。

平成の始まりは私にとって高校への入学の年でもありました。義務教育と言う名の「社会が用意してくれていた道」を歩み終え、自分のやりたいこと、やるべきことを自覚しながら歩き始めた時期といって差し支えないと思います。
そこから今日までの出来事を年単位で書き出してみたり、いくつかの過去の記録を読んでみたりすることで、改めて自分なりの「平成」を振り返ってみました。すると、本当になりたい自分の姿に向かって邁進し、時々壁にぶち当たりながらも、決してスマートではない方法ではなくとも、なんとか克服しているように見えました。ただ、そのなりたい自分の姿というものがどちらかといえば過去のコンプレックスの克服という後ろ向きなきっかけであったことが、その後の自分の人生を大きく遠回りさせたことにも繋がっているように感じました。

そして、それは最近まで続いていました。

もちろん、生きていくためには後ろばかりを向いてはいられませんから、普段は出来るだけ目の前を見ながらも、しかし、その道筋はあくまでも「過去」の反省と後悔を「現在」で上書きすることが主となっていたがため、時にはそれが不可能であることから「過去」への執着を生み、場合によっては「未来」への歩みを止めかねない事態を繰り返していたとも言えます。

幸いだったのは、昨年秋にそれがもう既に自分にとって無意味なものであることに気付かされたことでした。過去の自分のコンプレックスの克服が終わり、「もういいだろう?」という気持ちが芽生え、それが自覚できるようになったのです。そう考えると、平成という時代は自分にとって「自分で自分の道を切り拓くため、昭和の自分を清算し、彷徨いながら前に向かう」時代だったのかもしれません。

令和時代が自分にとってどのような時代になるかはまだ分かりません。もしかするとまた前の時代を清算し続けることに(結果的に)なってしまうかもしれないし、新たな困難に苦しむことになるかもしれない。しかし、過去の清算を終えたと実感できる今、これからは「平成」の様々な経験や思い出を糧にして、自分の本当にやりたいことを実現すべく頑張れる時代にしたいと思っています。

5年ぶりの中学の同窓会

去る8月12日、5年ぶりに中学校の同窓会がありました。

これまで中学校時代の同窓会といえば参加人数が3桁規模の大々的なものだったのに対し、今回は色々事情もあったそうで、30名足らずのこじんまりとしたものでしたが、そのお陰でこれまで何度か同席していたにも拘らずなかなか話をすることができなかった人とも話をすることができ、とても有意義でした。例を挙げると、Sくん、Tくん、Yくんは、当時ですら殆ど話ができていなかった(当時はなんとなく怖い雰囲気があった)のが、今回色々話を聞けてとても嬉しかったです。何よりも彼らが見た目よりずっと優しい人だったと知ったことが自分にとっては大きな収穫でした。他にも、卒業以来お会いすることのなかったNくんに再会できたことも僥倖でした。

そんな書き出せば枚挙にいとまがないほど楽しいひと時の中で、特に印象的だったことはYさんと当時の話ができたことでした。Yさんは中学2年生の頃の同級生で、クラスメイトだった当時は特に仲が良かったとか異性として興味があったとかそういうことはなかったのですが、間接的に不思議な縁があった人だったのでした。


私は中学2年生の頃、とあるきっかけで隣の中学校(私の転居前の自宅の学区の中学校で、また当時、件の幼馴染の通っていた中学校でもあります)に通っているSさんが好きになってしまい、そのことでクラスや部活動メンバー、はたまた通っていた学習塾でも色々騒ぎ立てていたのですが、そのおよそ三週間後、Yさんはその隣の中学校に転校することに。「なぜこのタイミングにそこへ転校!?」と愕然とした私でしたが、そのさらに数週間後にクラスメイト経由でYさんからメモ書きをもらいました。そこには「最新情報!?」としてSさんが一ヶ月後に都内に引っ越してしまうこととあわせて「告白するならお早めに」的なことが書かれていて、恥ずかしやら嬉しいやら悲しいやら、複雑な気持ちになりました。ただ、この件は結局自分がまだ幼くてそれ以上の進展は特にありませんでしたが…。

それからおよそ二年後の高校時代、私はMさんという女子に思いを寄せるようになり、告白までしたもののなかなかその気持ちが届かなくてヤキモキしていたのですが、実はそのMさんが私からの告白直後にアルバイトでYさんと知り合いになり、私のことをYさんに相談したそうで、その際Yさんは、前述の中学時代の協力のことや、私について「あの人は悪い人ではないんだよ」、「大切にしなね」とMさんに言っていたことを、Mさんと付き合い始める直前に聴きました。まさか、またもYさんがこんなところで私の恋沙汰に協力してくれていたとはね…と驚くとともに、いつか再会する日があったらこのことのお礼を言いたいな、と思いました。


今般、それがおよそ29年越しに叶ったわけですが、まあ当然というかYさんはそのことをすっかり忘れていたようです(汗)。まあ、そんなもんだよねえ。

ただ、Mさんのことはともかく、割と最近まで自分の中で黒歴史として封印し続けていたSさんの件をこうやって素直に話せるようになったのは、いつぞや幼馴染の件で色々あって、当時のことを思い出した上でそれが自分の真の過去だと素直に受け止められるようになったから、ということだったりして、偶然とはいえタイミングがよかったのかもなあ、と思いました。

なお、Yさんは私の幼馴染について、転校後同じクラスなだけでなく「席がちょうど前と後ろだった」とのことでとてもよく覚えていて当時のエピソードも少し聞くことができ、後日そのことを幼馴染にメールを伝えたところ「Yさんは転校前の中学校に戻りたがっていた。実際にその中学校に行ったこともあった」というような返信を貰いました。それを読んで私は「そんなことあったっけ?」と思っていたのですが、その直後に当時のクラスメイトから貰った中学2年時のクラスの集合写真に既に転校したはずのYさんの姿がしっかり写っていて、「ああ、こんなところにも私が忘れていた過去と真実があったのか」と今更ながらに思ったりもしました。

そんな、なんだか甘酸っぱいようなこそばゆいような思い出に一瞬とはいえ浸ることが出来たのが、今回の同窓会での最大の収穫だったのかな、と思っています。次回も参加したいから、それまで元気で頑張らないとな、と気持ちを新たに5年後を今から待ち遠しく思っています。

顛末のその後

3月末にやらかした(?)幼馴染の件のその後。
前回のエントリーを書いた直後にあるきっかけで連絡を取らざるを得なくなったことや、結局のところ、友達として仲直りしたいと思っているという気持ちには一点の曇りもありませんでしたので、色々引っくるめておよそ3ヶ月ぶりにメールした結果、当初思い描いていた、あるべき姿に落ち着いた感じです。
時間が解決したというより、結局は彼女の寛大な心のおかげのような気がしますけれど…(汗)。
改めてあの頃のメールを読み返すと、私は例によって春の嵐に飲まれていたみたいです。まあ、きっかけは分かっているのですけれどね。2年前にも同じ状態になってしまった時ときっかけ自体は全く一緒、違うのはその対象が妄想に留まっていたか、奇跡的にも現実として目の前に現れたかの違いですかね。
というわけで、もう二度とそのことをここで愚痴るようなことがないように今後は気をつけようと思います。

匿名との決別

というわけで、先の更新から1ヶ月間、色々あったのですが…(苦笑)。

前回のエントリーで書いた幼馴染の一件以来、どうもあまり良い運が巡ってこない感じなのですが、別にそれはその出来事のせいでもなんでもなくて、単に私自身が慢心し過ぎていて、それ故油断と隙だらけだったのかな、と思います。幼馴染の一件だって、結局は私が彼女のことを丁寧に扱わなかったが故だった訳ですし。

今般の事故で顔の左側の頰から額にかけて傷が出来、「人前に出るのすら憚れるほど酷い有様になった」と思い込み、一時は精神的にどん底まで堕ちてしまったりしましたが、逆にどん底まで堕ちてしまえば、あとは這い上がることだけ考えればいい。同じどん底に繰り返し堕ちないために、何が拙くてどう改善すればいいかを考える良い機会になりました。

そして得た結論は、結局大事にしていなかったのは何よりも今日の、今この瞬間の自分自身だったのだな、と気付きました。ここ数年、旧友や知人が若くして彼岸へ旅立つさまを立て続けに見、ついつい色々気持ちが焦るようになってしまっていて、あらゆることに結論ばかり急ぐようになり過程を楽しむことをすっかり忘れてしまっていました。

そして大切にしなかった、という意味では自らの本名もあります。
私は本名があまり好きではありませんでした。ちょうど、小学校に入学した頃にマッチこと「近藤真彦」氏が大ブレイクしていて、それ以来「一文字違いでこんなに違うのか」ということを直接言われたり、それっぽい態度を取られたりするなど不愉快な思いを長年していて、トラウマになっていたというのも少なからずあります。それと良くも悪くも確実に覚えられるので、そういう意味でも好きではありませんでした。

だから、ネット上では一部のSNSを除いては積極的に本名を出すのを控えていました。そんな中で「鳴沢大気」という私を識別し得るもう一つの名前は、知らない人から見れば実名と捉えられるという点で、いい隠れ蓑になっていました。しかし、その隠れ蓑こそが、自らを律することを疎かにさせ、ますます自らを貶めていることにこれまで気づかずにいました。

一方、昨今は「好きではなかった本名」のおかげで色々良かったこともあったな、ということにも気づきました。先日の幼馴染の再会だってそうですし、それ以外にも幾人かの旧友に会った際、私が私たる何よりの証としての本名を沢山の方に覚えてもらえていることが、デメリットではなくメリットであったことに今更ながらに気づいたのです。

そういったことを鑑み、これからは出来るだけ今の自分自身も大切にしたい、それが結果的に皆を幸せにできるのだろう、との想いから、「鳴沢大気」の名はこれを機に名乗るを止めます。本名を出すのはそれなりにリスクもありますが、メリットが上回るとすれば、あえてそのリスクを甘受する勇気も必要と考えています。

なお、ニックネームである「Marc’n」は、私のことをかつて「まーくん(或いは、まあくん)」、「まあちゃん」と呼んでくださった方がいたことから、どちらとも取れるスペルにしただけで、それ以上の意味はありませんが、そういう風に呼ばれることがとても気に入っていたこともあって、今後はそれなり使っていこうかと考えています。

幼馴染との再会とその後の顛末

既にtwitterなどでボヤきまくりました故、本件を知っている人も少なからずいると思いますが、三月にあったことを時系列で簡単にまとめます。

  1. かねてより「今どうしているのか知りたいけれど、もうきっと会うことは出来ないだろうな」と思っていた、幼馴染の女性から三十三年ぶりに連絡がきて舞い上がる。さらに、彼女からのメールに当時の私について大変細かく書かれていて、さらに舞い上がって邪推をしてしまう。
  2. 家内の許可を得た上で、彼女からの連絡から1週間後に二人で会い、昼食を取った後、かつて二人が通った学び舎へ。その後、喫茶店で「細く長い関係」として、私からfbでの友達関係を望むも、彼女は「これでは幼馴染としての関係もなくなってしまう。これまで同様メールでいいのでは」と回答し、「そうか、そういう特別な関係を望むのか」と捉え、益々舞い上がる。
  3. とはいえ、再会も果たしたのでいい加減日常に戻ろうと考えていた矢先、彼女からこれまで見たことのないような感情的なメールが届き、私は慌てふためき、余計な問い掛けをしてしまう。その余計な問い掛けのせいで、お互い、更なる誤解と疑念に満ちてしまうことになる。
  4. その誤解が解けない、と苛立った私はつい感情的になり、彼女にそれをぶつけてしまう。結果、彼女は私に「(その気持ちは)肉体関係以上に浮気」、「サヨナラすべき」、「奥さんを取って」と言い、私は彼女に「私とは多分生きる道そのものが全く違うところに向いている」と言い放って、実質的に喧嘩別れ。※ここまで、最初の連絡をもらってから三週間弱
  5. それまで、「別に彼女が居なくたって、私の今の日常にはなんの影響もない」と思っていたが、実際にそうなってみて、かつて彼女が近所にいて、共に遊んだ幼い頃を振り返ろうとすると、先日の出来事が辛く思い出される…、即ち心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったことに気づく。失敗した、と思ったが後の祭り。暫く陰鬱な気分の日々を過ごす。

細かいことは端折りましたのでイマイチ伝わらないとは思いますが、このようなことがありました。

なお、その幼馴染たる彼女は再会した際にはfbはやらないと言っていたはずなのに、いつの間にかアカウントを作っていたようで、私がそれに一昨日気づいて「最初からこうなっていれば、上記3.項以降の状況は生じなかったのでは」と悔しがっている状況です。でも、まだほとぼりが覚めたと思っていないので、暫くは連絡は難しいだろうな、と思っています。なにせ「肉体関係以上に浮気」と思われてしまったみたいです(実際には「(再会した)あの瞬間、心を奪われてたよ。」とは言ったものの、手すら握っていない)し、私も思いっきり捨て台詞吐いてますからねえ…。

まあでも、彼女の言葉には色々考えさせられることがありました。
例えば、私は家族自体はちゃんと見ていたつもりでしたし、幾ら幼馴染という特別な相手であっても、家族より優先する気は流石になかった(これは天に誓えます)のですが、家内を妻としてちゃんと見ていたか、と言われると最近はちょっとアレだったかなあ、という気もしてきました。なので、今後は月一回くらいはその「妻」と二人で出かける時間を作ろうかな、と思っています。子供達も随分大きくなって、そういう時間を作る余裕も出てきましたから。家内と一緒に生活するようになってから十五年余り経ち、惚れた腫れたという気持ちを抱いている時期はとうに過ぎていて、お互い「家族」という信頼関係に基づいて行動していたわけですが、私はそれに甘え過ぎていたのでは、という良い気付きになりました。
あと、彼女を「幼馴染」という特別な関係の枠に嵌めようとしたのも私のエゴだったなあ、と思っています。だから、もし、改めて彼女と意思疎通が出来るとすれば、ほかの同窓生と同じように接するつもりでいます。具体的にはfbなどのSNSのアカウントで繋がるだけで十分。というか、元々私はそれを望んでいたわけですし。

あとは時間が解決することを祈っています。

幸せの足跡

夜、子供たちが「赤ちゃんだった頃の動画や写真を見せて欲しい」とせがむので、久々にそれらを家族で見ました。

正直、録画した頃はありふれた日常の光景で、それ以降見返すことは殆どなかったのですが、今改めて見ると、新鮮で、そして何となく幸せそうな家族の姿にも見えて、それがとても心に残りました。

…そう、思い返せば、愚かしくて大した能力を持たない私ではあったものの、今まで沢山の幸運と沢山の人達の良心に恵まれて、割と平穏で幸せな日々をここまで過ごすことが出来たんだなあ、と実感したのでした。

明日、明後日、そして遠い将来に至るまで、それらが未来永劫保証されるわけではないし、思いもよらぬ困難や、全く望んでいない結末を迎えることになるかもしれませんが、少なくとも今日まで幸せであったこと、そしてそれを何かの形で残しておきたい、と思いここに書き残します。

願わくば、今日までのような日常が、1日でも長く続きますように…。

平成28年を振り返って

今年も今日でおしまいです。

気づけばこのブログ、今年6月に一エントリー書いて以来、完全に放置状態だったわけですが、さすがに一年のまとめはどこかに残しておきたいな、と思って徒然なるままに書いて見ます。中身は薄いですがご容赦を。

  1. 熊本地震
    震災そのものより、あくまでも私個人の話なのですが、この地震のおよそ半月前に中学時代の一周忌があり当時のことをいろいろ思い返していた時でした。その中で知り合って僅か半年て熊本に引っ越し、その後手紙等を通じて3年近く交流のあった特別な友人ともいうべき女性のことを思い出したりしていたのですが、その最中この地震が発生したことで、これまで自分が敢えて曖昧にし、あくまでも美談としてのみ覚えていたことの全てがフラッシュバックしてしまい、極めて情緒不安定になってしまいました。
    私自身はその地に赴いていたことはないし、先述の通り敢えてその記憶を曖昧にすることで深追いしないまま今日まで来たわけですが、眼前にその女性が生活していたところの惨状をテレビを通じて目の当たりにすることで、なぜか自分が追い詰められている錯覚に陥って、しまいにはニュースを見ることすら心理的に非常に厳しい状況になってしまいました。
    結局、それらを全て文章という形で吐き出すことや、家内に打ち明けることでなんとか立ち直り、幸いにして日々への影響は極小で済んだわけですが、ただ、この中でその頃から何がどうなって今日に繋がったかを省みるいい機会にもなった部分があります。そして自分なりに思ったことは「まだまだいろんな可能性に挑戦し続けるべきだ」ということでした。昨今、自分が歳をとったことで、いろいろ消極的になっていた部分がありましたが、まだそれは早いんだな、と。
    もちろん、歳相応に難しいこともありますし、環境面でやるべきではないことも少なからずある。でも、それらの枠内でできることはまだまだあるはず。そもそも若い頃だってなんでも出来たわけじゃないのだから、その出来なかったことを今から再挑戦しようと心に決めるきっかけになったように思います。それが、次項で述べる自転車購入に繋がっていきます。
  2. 自転車購入
    新しい何かを初めてみよう、ということでドロップクロス的な自転車を5月に購入。ロードバイクにしなかったのは、そこまで本格的なサイクリストになりたいと思ったわけではなく、カジュアルにサイクリングを楽しみたい、と考えたからでした。
    とはいえ、割と距離を走るようになってからは「やっぱりロードバイクにすりゃ良かったかな…?」と後悔している部分もなくはないですが(汗)。
    いやあ、風をきって走るってこんなに爽快だったとは。自動車で外出するのとはまた違った楽しみに気づかされました。
    冬に入って少し怠け気味にですが、少し暖かくなったらまたあちらこちらに走りに行きたいです。
  3. 著名人の相次ぐ逝去
    個人的には「プリンス」と「ジョージ・マイケル」がこの世を去ったことがなんともショックでした。
    特に後者は先述の「特別な友人」の思い出とも関連している部分があって、そういった意味でもなんだか寂しい気分になりました。
    こういうのを知ると、やはり時間は経っているのだなあ…と。それゆえ大切にせねばらないわけですが。
  4. 趣味方面
    昨年、電源関連とAccuphase DC-37を購入して以来、特に大きな動きがなかった趣味のオーディオですが、11月にB&W 802D3の試聴をしたことで「もう少しうちの機器で良い音を目指せるのではないか」と試行錯誤した結果、バイアンプが有効とわかり遂にAccuphase A-70という客観的に見ても高級機と言えるアンプを手に入れるに至ってしまいました。
    今月27日に来たばかりでまだエージングも済んでいない状況ですが、明らかにこれまでとは次元の違う音を聞かせてくれています。そして、この構成にすることで、スピーカが何かをするたびに敏感に反応するようになりました。これまでは何をしてもあまり目立った効果がなかったのですが、それって今思えばちゃんとドライブ出来ていなかった、ってことなんでしょうかねえ。
    また、ウォークマンのバッテリーがへたってしまったことや、iPhone 7 Plusで音楽を聞けたら楽でいいな、ということでMDR-1ADACなども購入。こちらは若干作り込まれた音の感はあるものの、明らかにこれまでのヘッドフォンと違う緻密な音を聞かせてくれ、いい塩梅です。
    来年もオーディオ関連には色々手を出すことになるかもしれません。楽しみです。

その他、Brexitや北米大統領選挙など色々考えを巡らすようなことがあったり、10月の地元の運動会では昔取った杵柄じゃないですが奮闘して頑張ったり、11月に雪が降ったりと、色々盛りだくさんだった1年でしたが、仕事の方も転職から満1年が過ぎ、まあなんとかやっていける感触を得て色々自信がついて来ました。来年は公私ともに飛躍の1年にしたいです。

それではみなさま、よいお年を。

33年目のピヨ夫の日

昨日6月12日はピヨ夫の日でした。

…などと書いても殆ど誰にも通じないと思うので、15年前(2001年6月12日)に書いたブログの、この日についてのエントリを引用することにします。乱文ですがご容赦を。

18年前の今日、まだ私は小学校4年生だったが、当時完成したばかりの竹園公園から大清水公園にかけての遊歩道を中心に「まつりつくば」が開催されていた。昼間は梅雨入りした割には天気もよく、当時のつくばとしては非常ににぎやかであったが、夕方になると重い雲があたりを立ちこめ、終いにはぽつり、ぽつり…と雨が落ちてきた。私は家に帰ろうとして自転車置き場に向かう途中で、彼と出会った。それは、露天のおじさんが売っていたニワトリのヒヨコだった。箱にぎゅうぎゅう詰めにされて何となく狭苦しそうだった上に、先ほどから降り始めた雫の下で鳴く声が当時の私には何となく悲哀に聞こえた。既に正価の半額となってたこともあり、ヒヨコに同情(?)して言った「1羽ください」。そして、その側面に丸く穴の開いた紙袋に入ったヒヨコを抱え、家路についた。
…とまあ、ここまではまあどうでもいいんだが…。当時の私が住んでいたのは公務員宿舎、つまりは団地だった(w。しかも4階である。親はその様を見てあきれ果てた。「そんなの買ってきてどうするつもりなの!」…そりゃそうだ。幾ら今は小さいとはいえ、彼はニワトリである。大きくなればかごで飼うわけにもいかないし、そもそも朝には派手に鳴くであろう。(しかも…次の日は父の誕生日だったり…「俺の誕生日の前日に…とんでもない子だ」と思ったに違いない(w。)しかしもう後には引けなかった。親もその辺は分かっていたらしく、それ以上は特に何も言わず、割と協力的だった。初日はとりあえず段ボールに入れ、そこにお湯を入れた瓶をタオルでくるんで作った湯たんぽを入れて、彼を寝かせた。私は彼に「ピヨ夫」という名前を付けた。その後、ピヨ夫はめざましい成長を遂げ(笑)、1週間で段ボールでは手狭となってしまった。仕方なく、それ以降はベランダで飼うことにした。正直言って4階だったので「落ちたらヤバいんじゃないのかなぁ」と思ったが、結局ピヨ夫は落ちることは一度もなく、ベランダを我が物顔で歩いていた。
ピヨ夫と一緒にいることで色々分かったことがある。よく「ニワトリは3歩歩くと忘れる」などと言うが、それはどうやら嘘らしいと言うこと。と言うのも、ベランダの窓を開けると必ずと言っていいほど、その方に駆け寄ってきたし、外に散歩に出しても主人のそばを離れない。その行動は結構愛らしく、周囲の友達もピヨ夫を結構気に入っていたようであった。
そのまま夏休みになり、家族旅行で山梨に行ったときなどはピヨ夫を洗濯籠に半ば押し込め(^^;、車で連れて行ったりもした。が、夏休みの終わりの頃になると、さすがに親もこのままにしておく訳にいかない、と思ったらしく、「学校で預かってもらいなさい」と言い、小学校のニワトリ小屋に連れて行くことになった。学校に着いて飼育小屋に入れようとするが、ピヨ夫はなかなか入ろうとしない。仕方なく、私が奥に入り待つことにした。…よし、入った!と思っても、こちらが出ようとすると進んで先に出ようとする。さすがに暑い最中にこんなことを繰り返しているわけにも行かず、終いには強引に押し込んでしまった。帰り際、寂しいそうに鳴くピヨ夫の声は暫く頭に焼き付いた。まあ、もっとも小学校に行けばいつでも会えるのだが…。
この後新学期が始まり、ピヨ夫を中心とし、上級生の女子を巻き込んで色々思い出深い出来事が起きるんだけど、敢えてその話はここではしない:-)。ただ、当時の私はニワトリにすっかりご執心状態となり、当時周りには「ニワトリキ○ガ○」と言われるほどだった。…って、なんか中学校のラピュタにハマった際にも同じこと言われてた気がするんだけど…(^^;、どうやら何かに「ハマる」とそれだけになってしまうと言う悪い癖はこの頃から始まった気がする。そしてそれは今も変わらない(コラ。
ちなみにピヨ夫はその2年後、残念なことに実験対象として近隣の研究所に連れて行かれることとなったそうなのだが、実はこの辺は私も詳しく知らない。と言うのも、私は直前に転校してしまってその小学校を去ってしまったから。…がその場に居合わせなくて幸せだったかも知れない。そのおかげで18年経った今でも楽しい思い出であり続けるのだから。(以下略)

33年経った今でもこの日を覚えているものの、別に何か特別な催しをするわけではなく、いつもとほぼ同じ日曜日を過ごしていたのですが、夜、家内からわしの留守中にあった出来事を聞きました。

「朝、尾が青くて長い綺麗な鳥が、家の周りをまるで中を覗き込むように飛び回っていたよ。あれ、何ていう鳥なのかしらね。」

そう聞き、わしが「今日はピヨ夫の日だったんだよ」と伝えると、普段はあまりロマンチックなこととか言わない家内が「きっと、ピヨ夫が生まれ変わって様子を見に来たんだ」などと言っていてちょっとだけジーンときました。「ああお前、帰ってきたんだな。33年目の、あの日と同じ日曜日に。…でも、お前と初めて会ったのは夕方だったのだから、今日も夕方に来てくれれば再会できたのに。」などと、まあ、そんなことを考えてしまったりしたのでした。