Category Archives: 思い出話

今日という日

朝のまどろみの中で、かつて、ほんの一瞬だったとはいえ心を通わせあった相手のことを思い出していた。
「今更、なぜ…?」そんなことを考えながら開いたスマホのリマインダーに、その相手の名前がぱっと表示されて、ああ、今日はそういう日だったよな、だから思い出したのかも、と独り合点した。

あの頃、そばに居てくれるのが当たり前だと思っていた
潰える日が来るとは思ってもいなかった
駅のコンコースで人目を憚らず号泣した夜のこと、今でも忘れられない
他の出来事でその隙間を埋め切ることができぬまま、心はあの時から逡巡を繰り返し続けている…

もう届かないだろうけれど、遠い場所からこの言葉を贈りたい。
誕生日、おめでとう。

気づいてみると

ここのブログエントリー、平日は仕事かそれに関連することしか書いてないですね。昔のブログであれば、どちらかといえば趣味側に寄っていたのに、気付いたら私が普段語れるものは仕事くらいしかなくなってしまったのでしょうか。

…。
つまらない人生を送るようになってしまったものです。
仕事人間にはなりたくないな、と若い頃は思っていたものですが。

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敢えて現状に甘んじる

少し前のエントリーで「生き急ぎすぎたのかも?」的なことを書きましたが、その週は結局そのことが頭から離れず、かなり思い悩むことになりました。

家内からは「あなたはずっと動いていないと気が済まない。まるで魚のよう。」と都度指摘されているのですが、確かに私は現状維持というか、そのまま何も変えないという状況があまり好きではありません。変えないということは「変わらない」ではなく実際には時と共に退化・劣化することを意味する、と考えているからです。だから物事、特に興味関心が強い事柄についてはそのスピード感はともかくとしても「進む」か「退く」かのいずれかしかない、と考えてしまうことが少なからずありました。この1年半近く、仕事において今の立場になってからはより一層その傾向が強くなったように感じます。

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二社一寺や奥日光だけが日光じゃない

このブログのエントリーが最近なんとなく病み系?になりつつあるほど、精神的に色々疲れ果てていたので、気分転換にぷらっと日光まで行ってきました。緊急事態宣言が解除されてはや一ヶ月、ここのところ新規感染者数が少ないこともあってか、久しぶりに沢山の観光客で賑わっていましたので、敢えて有名どころは避けて、比較的閑散としていそうなところばかり回っていました。

ところで、私にとっての日光とは…。
あ、いや、5月のエントリーにも書いたし、それ以外のエントリーをも読めばいかに私が日光という場所を特別だと思っているかは分かると思うので、もう繰言のごとくクドい説明は一切割愛して取り敢えず巡ってきたところの写真を載せておきます。

ひとしきり回ったのちに叔父の喫茶店に寄って珈琲を頂きつつ世間話をしていたら、同店の古くからの常連さんである、酒屋のご主人(叔父と同年代だからかなりのお歳のはず)が入店してきまして、その後、そのご主人と叔父との会話を聞いて片隅で笑ったりしていました。この酒屋のご主人とお会いするのも多分20年ぶりくらい?当時は私が比較的ここに通っていたこともあって覚えていただいていたものと思いますが、今日、思い出して頂けたのかが若干不安です(汗)。そもそも、もう20年も経ってますからね。

思い返してみると、この喫茶店では色んなことがありましたね…。

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なかなか来ない週末

今週は週の頭から忙しかったせいもあってか、なかなか週末が来ないなあ、という感覚があります。
昨日なども、朝起きてみて土曜日の朝でないことに残念がり、そしてその夜も金曜日でないことにガッカリしていました。で、ようやく今日が金曜日なのですが、気持ち的にはもうどうでもいい、適当にやろうか、みたいな気持ちしか湧いてきていないという状況です。あまり良くない傾向だなあ、と思っています。

洞峰公園のいちょう並木

実際、職場でもそのあまり良くない兆候が表に出てしまっていて、昨日の帰り際に、協力会社の若手のここのところの仕事ぶりを褒めるのに「よくここまで来たね。」などと発言してしまったところ「今日が最終日みたいな言い方ですね。まだ終わりませんし明日もありますよ?」と言い返されてしまいました。恐らく、心の奥底で考えている何かが言葉になってしまったのでしょうね。

前職の最後一年くらいも同じ状態に陥っていました。虹の彼方へ憧れ、その旅立ちに相応しい音楽は何だろうか、とかそんなことを通勤電車の中で毎朝考えていました。誤解されると困るので念のために書いておきますが、本当に旅立ちたいと考えていたわけではありません。当時の仕事は充実しており、まあまあ自分の思い通りにことが運んでいて、しかしそれを維持するためにほぼ全力疾走状態だったことに疲れていて、「自らの消耗と引き換えに得られる安定の環境が本当に良いことなのだろうか。…いっそのこと、こんな現実を壊してしまいたい。」と考えていたのでした。
今の会社への転職を機にそういう猛ダッシュはやめて、マイペースで歩こうと思っていたのですが、それから6年余りが過ぎて、気づいたら元のスピード感に戻ってしまったようです。

転職を機に得たものは少なくありません。通勤環境・業務内容・役職・待遇のいずれもが、かつては夢で憧れたそれに、いや、むしろそれを超えてしまったほどです。私のように大した学もなく、特に若い頃はいい加減に生きてきた者がこんなに恵まれた環境を得て本当に良いのだろうか、というありがたく思う気持ちは少なからずある一方で、次なる目標が見出せなくなってしまい、むしろ最近は「守り」に懸命になっている感があります。…目標が見つからない、と言い始めてもう幾年になりましょうか。

新しい光が見つけられず焦りつつも、しかし特段安楽というわけではない。むしろ今の状況を守ることでいっぱいいっぱい。でも、今の状況を守るだけだから夢や希望など湧いてくるはずもない。こんなただ「もがくだけ」の日々ならば、できることならリセットスイッチを押してしまいたい。そんな気持ちがまたも頭をもたげ始めてしまっています。

今朝の音楽は自分でもよく弾くピアノ曲でGeorge Winstonの「The Cradle」。かつて考えていた、旅立ちに相応しいと思っていた楽曲の一つです。
それでは金曜日の今日一日、頑張ってもがきたいと思います。

趣味の音響機器…?

このサイトのサイドバーには「趣味の音響機器」と書いてあるのに、実際のブログでは先日E1TXの音が豹変した、というエントリーを書いて以降、iPhoneや新型アクアについてくらいしか触れていない気がします。

そういえばその昔、mixiの私のアカウントの紹介文に次のように書かれていたことを思い出します。

その時期によって、オーディオやら車やらPCやらに熱中していたが、今は奥さんに熱中しているらしい方。

マイミクからの紹介文 – mixi.jp

奥さんに熱中していたかどうかはもう記憶が定かではありませんが(汗)、周りからみると移り気で、その時々によって興味関心が変わる人という印象なのかなあ、と思ったことを覚えています。

実際には他の何かに興味関心が移ったとしても、音響機器や音楽鑑賞だけは一途に続けているつもりの人です。精神が参っている時など音楽を掛けても全然頭に入ってこないこともありますが、換言すればそれでも音楽は聴くことを止めません。むしろ職場でも音楽を聴きながら仕事をしたいくらい。特に今夏、スピーカーをTAD-E1TXに買い換えてからは、これまで聴いていた楽曲の新たな表情が明らかになることもあって、聴いていて飽きがきません。しっかりと一つ一つの音の表情を繊細に描写しながらも、押し付けがましい音は決して出さない、とてもいいスピーカーだと思っています。

TAD-E1TXは今日も魅力的な音を奏でてくれています

雨上がりの今朝のリスニングはGeorge Winstonの「WINTER INTO SPRING」。特に5曲目の「Rain」は私の好きな曲のベスト10入り。初めて聴いたのは高校二年生の頃ですが、「こんな美しいサウンドが世の中に存在するとは!」と身も心も震えた記憶があります。名曲はいつ聴いても名曲。それゆえ、この趣味は長続きしているのだろうな、と思っています。

revise:

昔書いた駄文を見つけました。

昔書いた駄文(一部画像を加工してあります)

浪人当初の私の精神状態をあたかも現実のように書いたものだったのですが、今読むとちょっと拙い感じ。なので、少し手を入れてみました。

昼過ぎごろ、突然本降りの雨が街の景色を派手に滲ませた
轟音とともに地面を叩き付けるその雨は全く止む気配を見せず、傘を持たない私を悉く濡らし、その様はまるでボロ雑巾のようだった。この春から身分不定で生き続ける意味すら見失っていた私には、それはまるで天からの叱責のようにすら感じられた。

「ーーーッ!…」

自らの惨めさと淋しさのあまりその場にいない誰かの名を、私はあてもなく叫んでいた。
かつて、その単語は自らの安らぎの相手に掛けるための大切なコトバであったが、もうそれを直接伝えることはできない。
そしてその声は、街に響き渡る前に烈しい雨音に紛れて消えた。

次の瞬間、ふっと街の灯が非線形的な筋を描いて、視界から消えた。

「…、大丈夫ですか?」
街行く誰かに声を掛けられて我に帰った時、私は無数の水溜りが落ちている舗道に突っ伏してしまっていることに気づいた。
よろよろと起き上がり、「大丈夫です。」私はようやくそう応えて、様々な複雑な感情に苛まれながら、その場を足早にあとにするのだった。
私の顔がびしょ濡れなのはこの雨のせいだ、と、心の中で言い訳をしながら。

雨は降りしきっていた。
私の、孤独の涙を洗い流すのかのごとく…。

《April 22,1992(Wed) at JR Kashiwa station.》

うーん、ちょっといまいちかなあ。そもそも元の文が厨二病全開っぽい感じでもあるので…。なお、このシーンのBGMは次の曲をイメージしていました。

実際には代ゼミ柏校から帰ろうとした時、にわか雨が降ってきて傘を持たない私を濡らしたものの、流石に誰かの名前は叫んでないし、舗道に突っ伏してもいません。ただ、気持ち的にはヨレヨレだったので、あたかもそういうことをしたかのごとくの文を書いた、というだけの話でした。

もう、その代ゼミすらありません。今となっては当時の街の景色は、もうセピア色の向こう側のものになってしまったようです。

想い出を、掘り返す

私が2001年から設置していた旧サイトのブログ記事について、たまに私自身が読みたくなった時にはInternet Archiveを参照するなどして閲覧していたのですが、所々歯抜けだったりしていまいち読みにくいので、いっそのこと、と思い、この辺の情報を参考にしながら本サイトにデータを移行してみました。
※なお、移行元であるtDiaryは、バージョン3.0以降でデータファイルの文字コードがeuc_jpからutf8になっていますので、これから移行を行う方はt2m.plの該当部分をutf8に書き換えるとうまくいきます。

それにしても…、改めて読み返すと2003年以前のエントリーは酷い文だなあ(笑)。特に、2001年1月のエントリー全部と、2001月2月17日のエントリーは酷い。
後者は今でもどういう状況だったかを鮮明に覚えています。元々某所で知り合いだった大人しめな女性の電話番号を、とある集まりの機会に本人から直接教えてもらったので、ドキドキしながら掛けてみたのですが、残念ながらまともに相手にされなかったのでした。若気の至り、といえばそうなのでしょうが…。その方とはそれっきりだったなあ。

あと、「あれ、こんなの書いていたっけ?」と思ったのが、2011年2月18日のエントリー
この頃になると文体そのものは今と殆ど変わらないのですが、この内容は割と最近、職場の若手に話した内容と全く同一でして、私は10年以上前からこんなことを言っていたのか、と思うと同時に、もしかしてこの10年あまり進歩というか成長してないのでは、と若干不安になりました。ううむ、いかんなあ。(「成長」というよりかむしろ「老化」だろう?とか言わないように!)

それから、今の家内と初めて会った日のエントリーは2002年10月27日ですね。
この時点では、正直言ってここで会った女性が将来の家族になるとは全く思っていませんでした。むしろ縁としては遠いよなあ、とすら思っていたものです。それが、そのおよそ半年後には新生活の幕開けとなり…、本当に人生とは何があるか分からないものです。

実は自分自身でも何書いていたのか忘れた、的なエントリーも少なからずあるので、秋の夜長にかつての自らの醜態を後悔しつつ足跡を辿りながら明日に繋がるヒントを探してみようかな、と思いました。

5年ぶりの中学の同窓会

去る8月12日、5年ぶりに中学校の同窓会がありました。

これまで中学校時代の同窓会といえば参加人数が3桁規模の大々的なものだったのに対し、今回は色々事情もあったそうで、30名足らずのこじんまりとしたものでしたが、そのお陰でこれまで何度か同席していたにも拘らずなかなか話をすることができなかった人とも話をすることができ、とても有意義でした。例を挙げると、Sくん、Tくん、Yくんは、当時ですら殆ど話ができていなかった(当時はなんとなく怖い雰囲気があった)のが、今回色々話を聞けてとても嬉しかったです。何よりも彼らが見た目よりずっと優しい人だったと知ったことが自分にとっては大きな収穫でした。他にも、卒業以来お会いすることのなかったNくんに再会できたことも僥倖でした。

そんな書き出せば枚挙にいとまがないほど楽しいひと時の中で、特に印象的だったことはYさんと当時の話ができたことでした。Yさんは中学2年生の頃の同級生で、クラスメイトだった当時は特に仲が良かったとか異性として興味があったとかそういうことはなかったのですが、間接的に不思議な縁があった人だったのでした。


私は中学2年生の頃、とあるきっかけで隣の中学校(私の転居前の自宅の学区の中学校で、また当時、件の幼馴染の通っていた中学校でもあります)に通っているSさんが好きになってしまい、そのことでクラスや部活動メンバー、はたまた通っていた学習塾でも色々騒ぎ立てていたのですが、そのおよそ三週間後、Yさんはその隣の中学校に転校することに。「なぜこのタイミングにそこへ転校!?」と愕然とした私でしたが、そのさらに数週間後にクラスメイト経由でYさんからメモ書きをもらいました。そこには「最新情報!?」としてSさんが一ヶ月後に都内に引っ越してしまうこととあわせて「告白するならお早めに」的なことが書かれていて、恥ずかしやら嬉しいやら悲しいやら、複雑な気持ちになりました。ただ、この件は結局自分がまだ幼くてそれ以上の進展は特にありませんでしたが…。

それからおよそ二年後の高校時代、私はMさんという女子に思いを寄せるようになり、告白までしたもののなかなかその気持ちが届かなくてヤキモキしていたのですが、実はそのMさんが私からの告白直後にアルバイトでYさんと知り合いになり、私のことをYさんに相談したそうで、その際Yさんは、前述の中学時代の協力のことや、私について「あの人は悪い人ではないんだよ」、「大切にしなね」とMさんに言っていたことを、Mさんと付き合い始める直前に聴きました。まさか、またもYさんがこんなところで私の恋沙汰に協力してくれていたとはね…と驚くとともに、いつか再会する日があったらこのことのお礼を言いたいな、と思いました。


今般、それがおよそ29年越しに叶ったわけですが、まあ当然というかYさんはそのことをすっかり忘れていたようです(汗)。まあ、そんなもんだよねえ。

ただ、Mさんのことはともかく、割と最近まで自分の中で黒歴史として封印し続けていたSさんの件をこうやって素直に話せるようになったのは、いつぞや幼馴染の件で色々あって、当時のことを思い出した上でそれが自分の真の過去だと素直に受け止められるようになったから、ということだったりして、偶然とはいえタイミングがよかったのかもなあ、と思いました。

なお、Yさんは私の幼馴染について、転校後同じクラスなだけでなく「席がちょうど前と後ろだった」とのことでとてもよく覚えていて当時のエピソードも少し聞くことができ、後日そのことを幼馴染にメールを伝えたところ「Yさんは転校前の中学校に戻りたがっていた。実際にその中学校に行ったこともあった」というような返信を貰いました。それを読んで私は「そんなことあったっけ?」と思っていたのですが、その直後に当時のクラスメイトから貰った中学2年時のクラスの集合写真に既に転校したはずのYさんの姿がしっかり写っていて、「ああ、こんなところにも私が忘れていた過去と真実があったのか」と今更ながらに思ったりもしました。

そんな、なんだか甘酸っぱいようなこそばゆいような思い出に一瞬とはいえ浸ることが出来たのが、今回の同窓会での最大の収穫だったのかな、と思っています。次回も参加したいから、それまで元気で頑張らないとな、と気持ちを新たに5年後を今から待ち遠しく思っています。

四半世紀前の追憶

きっかけは今年の春、リビングルームのオーディオ機器(メインシステム)の整理をしようと思った時に遡ります。

オーディオ機器の整理と併せてメインシステムから切り離すことになる各メディアについて、それぞれデジタルデータ化して保管することにしました。市販のソースであれば絶版のものでもない限り買い直せば済むのですが、自分自身で記録し、編集したもの唯一無二も少なからずあるものですから、これらは実時間を掛けてでもそうする価値があると考えたのです。

その唯一無二のもののなかの一つに一本のビデオテープがありました。記録されている映像は高校時代所属していた放送部のMIIビデオカムコーダで撮影したものをVHSテープにダビングしたもので、その中には当時の友人であったNくんに頼まれて編集した、通称「Nビデオ」も含まれていました。それらの映像は久しく目にすることこそなかったものの、当時どのようなことをしたかは粗方覚えていましたし、正直、その映像を今後見たいと思うかどうかは分かりませんでしたが、「将来見たくても見られない」という事態を一応は避けるべく、デジタルデータ化を始めました。すると…、意外にも「懐かしい。この映像はまるで昨日のように鮮やかなのに、もう遥か昔のことになってしまったんだなあ」と、急に胸を締め付けられるような気持ちになりました。また、当時の「Nビデオ」が今時の大画面ではとても見苦しいものであることなどから、「これを最新の環境でリメイクしたらきっと綺麗になるに違いない」と思い立ち、改めてiMovieで編集をし、ちょうどその直後に誕生日を迎えるNくんに誕生祝いのメッセージをfbで投げるついでにこのリメイクした「Nビデオ」を渡したところ、「たまには会って食事でもするか」ということになり、卒業以来四半世紀ぶりの再会を果たしました。

再会当日、あまりにも久しぶりすぎてロクな話題がないかも、などと言う心配は全くの杞憂で、まるで先月会ったばかりの友人に再会したような感覚に襲われるほど身近で遠慮のない話が出来て、大変充実したものになりましたが、その中で印象的だったのが、私と家内の関係について話したのちNくんより「あの頃から、自分の付き合っている相手には隠し事とかしない、って言っていたよね」と言われたことでした。

私は社会人になった以降もしばらくの間は「高校時代こそ人生の至福の日々で、あの頃のように周りの全てを投げ打ってでも何か一つのことに一生懸命になりたい」と思っていたのですが、それらの結果が散々であったことや、その過去を上書きできるほどの日々をその後過ごしたこと、そして、今日の立ち位置を得るのに高校時代に周りの全てを投げ打ってしまったことで遠回りをしたのでは?と昨今思うようになってしまったこともあって、高校時代はむしろ暗黒の時代だったのかも、とネガティブな過去としての印象が強くなっていました。が、先ほどの一言をNくんから聴くことで当時のことを思い出し、その過去が暗黒ではなく今日に至るステップの一つだったんだ、と改めて思い返させられてハッとしました。

* * * * *

その一生懸命の一つのこと、とは恋愛でした。当時、本当に好きで好きでどうしようもなくて、それしか頭になかったと言っても過言ではない人がいました。その人の頬に優しく触れてみたい、そして抱きしめてみたい…。そう思えた最初の異性でした。しかし、最初の一年目は、自分の気持ちこそその人の誕生日に伝えることが出来たものの、あまりにも積極的に色々なことをしてしまったせいかお付き合いすることは叶わず、二年目にようやく付き合い始めることになるのですが、お互い子供だったと言うこともあるのでしょうね、最初は誰が見ても仲睦まじく、むしろ余人が近寄ることすら憚れるほどの関係と言えるほどだったのに、大人の真似事をすればするほど心がすれ違っていき、我に返った時には既にその人は私の元を去っていました。卒業と言う物理的な変化もあったのですが、それ以前より気持ちは既に離れていたのです。私は当時、全てを失ったと言う絶望感から憔悴し、一思いに楽になった方が良いかもね、などと言うことまで頭を過ぎったりしたのでした。

その後、幾つかの経緯があって「関係を戻そう」と相手から提案されたこともあったのですが、私は相手と私自身の気持ちを断ち切るつもりでかなり厳しい回答をしたことを覚えています。それは安易に時計の針を戻すのではなく、まだ見ぬ未来に自らの運命を託すと言う自分なりの決意でもありました。それはまた、新しい心の旅の始まりでもあったのです…。

* * * * *

このような経緯だったこともあってこれらの過去を意図的に封印して、時々それ以外の過去を思い出し苦悶しつつも出来るだけ前を見てきたつもりでしたが、今年はついにその頃の記憶の封印を解くきっかけになったように思います。…いや、単なる「きっかけ」だけではなく、この封印を解くのにこれだけの時間が必要なほど強い気持ち・思いだったんだ、とも言えるかもしれません。そして、今年はその人に出会って気持ちを伝えた一年目のそれと曜日の巡りが同じだったことに気づき、年初のエントリーである「昔日の蛍とその先にあったもの」も含め、全てが偶然だとは思えないような状況だったように思います。

その人の誕生日、今の家内にこの頃の話を初めてし、ようやくあの頃の自らのポリシーを全う出来たような気がしています。そして、改めて次の一歩を踏み出せるようにと、これらの過去を踏み台にして前方にある未来に向かって突き進んでいこうと思います。